赤羽記01鎌倉時代の保科氏


鎌倉時代の保科氏
※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。


保科氏ハ 信州川中島善光寺ノ西(イ 辰巳)ニ當テ保科ト云在所アリ 則保科氏ノ御先祖 此所御出生ノ地也


(欄外注釈)井上ハ保科ヨリ南ニ當ル山 一重向也


右大将頼朝ノ治世ニ 川中島井ノ上ノ主 井ノ上九郎光盛ト云者 一條ノ忠頼ニ一味ノ聞ヘ有之 故 右大将家退治之 光盛ハ京ヨリ下ル道ニ駿河ニテ被誅 保科小川原ハ光盛ノ一類ニテ旗下也 保科ノ太郎 小川原雲藤蔵ト云
此節鎌倉ヘ来 両人無違心旨ヲ申上 則御家人之内ヘ可列ト 因茲三代将軍ヘ仕フ


 然ニ北條家ヘ治世渡リ 保科氏浪牢之身トナリ 後ニ信州藤澤ヘ来
藤澤ノ者共ヲ頼 年月ヲ送ラル 弾正公ヨリ十代計先ト云 藤澤ノ者共 保科ト云名字ヲ貰 或ハ籾粟ヲ以買之ケリ 保科ハ源家歴々ニテ故 有名字ト云テノ事也 弾正公御世ニ至テ悉改之ラル



管理人訳:

 信州川中島、善光寺の西(南東との資料もあり)にあたる所に、「保科」という場所がある。すなわちここが、保科氏の先祖の出生の地である。

(注釈)「井上」は「保科」より南にあり山を一つ超えた所である。

 右大将・源頼朝の時代に、川中島井上の領主「井上九郎光盛」という者が「一条忠頼」に味方していると噂が立った。それ故、(一条忠頼は)右大将源頼朝に殺され、井上光盛も京から下る道中の駿河(現・静岡県東部)で殺された。

 「保科」と「小川原」は光盛の同族であり旗本だった。「保科太郎」「小川原雲藤蔵」と言った。この時、鎌倉へ参上し、両人とも違心がないことを申し上げると、御家人に列せられた。三代将軍(源実朝)に仕えた。

 しかし北条家に権力が移ると、保科氏は浪々の身となり、後に信州の藤澤にやって来た。藤澤の者たちを頼り年月を過ごした。保科弾正公の10代ばかり前のことだと言う。

 藤澤の者たちは「保科」という名を、もらったり、あるいは籾や粟で買ったりした。保科家は源家の流れであり有名であったからである。弾正公の時代になり、(この保科の名の氾濫を)ことごとく改められた。



管理人考:
源頼朝の一条忠頼誅殺事件