大出殿時代の敷地 大槻氏へ
是より北ニ 中谷健右エ門 居住之跡有り 又其続ニ 中村織部と云者居跡有
大出殿没落之後 大出殿よりのゆるしを以 箕輪殿 右両屋敷 添 吉(壱?)町三反歩 大出殿在城之居所 并 分附之 山出 として申所ゟ 南 富士塚迄 相添 大槻氏江 被下之
其後 天正十八 [1590] 年 毛利河内守 御検地之節 右之拝領地 大槻氏之百姓分地致 御竿地と成
※赤字は管理人が加えた注釈や西暦など
管理人注:
・分附=ぶんつけ=江戸時代、検地帳などに記載された農民の名前の肩に、「誰々分」と本百姓の名を書き付したこと。
管理人訳:
「辻堂」や「五りん畑」の北に「中谷健右エ門」が居住した跡がある。また、その続きに「中村織部」という者の住居跡がある。
大出氏が没落した後、大出氏の許可を得て、箕輪殿がこの二つ屋敷と、それに合わせて1町3反歩(3,300坪 1.3ha)ある大出殿が在城していた頃の住居、そして検地帳に「山出」として記載されているところから南へ「富士塚」まで、大槻氏にくだされた。
その後、1590年・天正18年に毛利河内守が検地をした際、この拝領された土地は大槻氏の土地として検地帳に登録された。