平出大橋の人柱 所在地:辰野町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
生きた人を土中に埋めて工事の基礎をかためとするのを人柱という。いつの頃から始まったまじないか、今は皇居となった江戸城にも石垣の修理をしたときに立ち姿の人骨が出てきた。壮年の男子の骨で、櫓の真下にあった様だ。
木下藤吉郎出世物語の矢はぎの橋も何回かけなおしてもうまくいかないので占ってみると、人柱を埋めないと駄目だといわれた。人柱を埋めるときめたものの、さてその人選をどうするか、盛年期の男でしかも丈夫な男でなければならない。占いか、言いつたえか知らないが、袴を着物に直して着ている人があったらその人を選ぶべしと知らされた。村々の人々のうちにそのような人がいるかどうか、詮議をし出した。所が端から検(しら)べていくと数多くのうちにはやはりおったが、しかし自分から進んで申し出る人はいない。ある村の貧しいその日暮らしの百姓家の親父さんであったが、その様な着物はたしかに持っているが、自分がその選にあたっては大変なので、自分の子供たちには固く口止めをしておいた。だが、反って子供たちには黙っておいた方がよかったかも知れない。村役人が子供たちをつかまえて聞きただして歩いているうちに、その百姓家の子供たちの所へきて、うまく聞きただし出した。大きい子は黙っていたが小さい子が、うちには袴の着物があるが人に云ってはいけないといわれたよ、としゃべってしまった。その父は勿論、人柱にされて、矢はぎの橋の橋桁の根元に生き埋めにされてしまった。父は矢はぎの人柱とか、物語りにいい伝わっているそうだ。
人柱が実在した一つの惨酷物語だが、遠い所の語り草ではない。信濃国の人柱というのが辰野平出の天竜大橋にもあった。時代は延喜 [901-923] のころというから千年くらいも前のこと、いくたびか橋をかけても成功しない。そこで官の衆議によると、生きた人を埋めることに決し、それをやってようよう橋がけに成功した。人々の間では”信濃国の人柱”という云いつたえられてきたそうだ。
橋長二十二間(四十米)、巾二間(三・六米)の、木橋である。この橋をわたって東に進めば、諏訪に通ずる有賀峠、西は川島、小野、南下すれば伊那に通ずる三叉路にあたる。もっともこの橋は今の所よりやや下手にあったのではないかと思う。それは平出局の前の道を斜め南北に横切る古道があり、その古道を南にいくと、天竜の河ばたで切れているが、それを受ける河西の古道も今の電車の鉄道の下手を南にわたり、小学校の校地を西にぬけて宮木へ出ているからだ。[p12/13/14]
ある人の歌える、
吟歩してわたる天竜渡口
清風一夜にして萩蘆の秋
東山月出ずれば四面開け
百尺の金竜 波に踊る
さはあれ人は知らずや
幾百霜 橋頭を抱きて立てる人を
人柱の平出大橋は辰野と平出との境にある橋だ。[p14]
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