手長神社 所在地:辰野町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
現手長神社・羽場城跡
城(羽場城址)の本丸に当る所は神社の社地になって、砲兵の使った廃砲を忠魂碑に仕立てて、マッカーサーの撤去命令の解除になるかならない内に、一番人の目につく所に建てた。羽場の南から移して来た手長神社である。[p30]
元宮・一本桜
国鉄の電車が沢から羽場に至る中間、左手に物の見事な桜の大木がある。一本桜と言っている。高さ二十米、幹回り二抱え近くある。近隣の畑主らは、 ”切れ切れ” と言う。けれど、いざとなると切り捨てられない。木の下の芝原に農家の人も休みに来るという。
ここが羽場城に祀ってある手長神社の元宮であった。手長とは妙な名前だが手摩乳ノ尊(てなびちのみこと)と言うのが古い名で、上諏訪の大己貴命の御神流であるといい、北大出、羽場、沢、大出の総鎮守であった、と。[p32/33]
この手長の桜(手長の森)南辺が(羽場村と沢村の)境になっている。[p33]
元宮の故地・みたらしの池
この手長の元社のそれ以前の故地は南三百米位、線路のすぐ西に涸れない泉水があり、その池上に旧社地があった。みたらしの池という。[p33]
管理人考
元宮・一本桜
古地図などを見ると、羽場村と大出・沢村の間に「手長の森」があり、かなり大きく森の図が描かれているものがある。当時はかなり目立って、この地のシンボルの様な森があったようだ。
現在は伊北インターから東京方面へ中央道に合流するとすぐの、左手の畑の中に、多分これが「手長の森」の跡地ではないだろうか・・・?というくらいの木と石碑が、工業団地と畑の中にポツンと立っている。そこが手長神社の元社で、そのすぐ東に、沢からの古道が南北に走っているが、そこからの参道入口にあたるところに確かに大きな桜の古木が今も存在する。この桜の古木は羽場区で案内板も建てていて保護されているようだ。
「伊那の古城」執筆時の昭和40年前半あたりではまだ中央道もなく、飯田線の車窓からこの古木がしっかり見えたのだろう。しかし今は中央道が飯田線と古木の間に盛り土をして出来ており、もう車窓から見る事は出来ない。どちらかというと、高速から石碑が見えるくらいか。古木は高速脇に近すぎてやはり見えない。
元宮の故地・みたらしの池
「伊那の古城」にある、手長の森の、さらに故地は、そこから南へ300メートルという「伊那の古城」の「線路のすぐ西」という記述に従うと、地図上では、そこはオリンパスの駐車場の東の土手あたりになる。
元宮の石碑の記述を見ると、ここから南へ三百町とあるので、正確には330メートルくらいか。その涸れない泉というのを見つけに歩いてみると、300メートルよりはもうすこし南に確かにちいさな清水の湧く池があり、多分ここが旧社地だろう。案内板もなにもない。しかし池の回りの木は手入れされている様子がある。
みたらしの池の前面は畑でも田んぼでもなく草原となっていて、更に天竜川方面に向かって川筋にあたる帯状のエリアがやはり畑などには利用されず野原となっている。土地としては河川として登録があって畑に出来ないのか、昔の川筋の形が分かるようで面白い。
このあたりの道の形状が両側の畑よりかなり高く盛り土がしてあり、道だけが一段高くまるで堤防の様な形状をなしている。「手長神社の元宮の故地」は「みたらしの池」という涸れない泉にあった。これは想像だが、もしかして、かつては今よりも水量があり、一帯が湿地になっていたのでは?と思ったりする。この道はその湿地と田畑の境目、堤防の様な役目もしていたのでは・・・・
「手長神社舊蹟之記」より 大正三年 [1914]
元宮の石碑を現代語に訳す
信濃国上伊那郡伊那富村羽場区字南原に鎮座する手長神社は、古の昔に創建されたため、当地の総鎮守である。
時代は下って、天文二十四年 [1555] 柴河内守が再建する。
神祇官(じんぎかん)が幣帛(へいはく) 共進(神に供物を供えること)した。
藩主が祈願・寄附などをすることもあった。
武門武将に誉れ高く、大変厚く帰依尊崇された。
社殿ははじめ、ここから三町 [約327m] 南の古宮の地にあり、弘治年間 [155-1557]にこの地に移って来た。実に三百五十年あまり、
(まだ続く)
『箕輪町歴史行脚』小川竜骨より 昭和54年 1979年 出版(原文は詩調)
羽場と沢との村境 手長神社の御手洗(みたらし)の池は荒れ果てぬ 野良の憩ひに里人が親しみ深き水房(みずぶさ)の 池は滾々(こんこん)清水湧く※「水房」とは小字か。池があり清水が湧くといういうことは、弘治年間 [155-1557] に場所が変わる前の「元宮の故地」のことだろう。
『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より
南の箕輪領境に手長の森と呼ばれた広大な森があり,そこに手長神社が鎮座していたが,明治40年に羽場城跡へ移転され,森もすべて切り払われた。
『上伊那郡史 全』より 唐沢貞治郎 編 上伊那郡教育会 出版 大正10年出版 [1921]
手長神社 祭神:瓊々杵尊・保食神・火彦霊神・仁徳天皇 創建:大化以前
仁徳天皇の朝 [313-399] 賜材再建、慶雲三年 [706] 造営、 坂上田村麿 [758生-811没] 、金刺舎人の武器奉納殿宇修造等のことあり。
往昔より佐補郷の総鎮守たりしと伝ふ。
武田信義 [1128生-1186—没] の祈願、柴河内の再建等 [1555] あり、其の他戦国時代に於て近郷豪族の祈願寄進少からず。
飯田城主京極高知 [1593-] も又宝物幷(ならび)に神器を奉納したりと云ふ。
弘化四年 [1847] 八月五日神祇官より幣帛の寄進あり、明治四十年 [1907] 九月二十日神饌幣帛料共進神社に指定せらる
往昔の社地は字古宮と称する處なりしが、天文 [1532-1555] ・弘治 [1555-1557] の間 兵火に罹り(かかり)て、字南原に移転鎮座し、是れより数百年星霜を経たりしが 明治四十三 [1910] 年十二月八日 字家東なる無格社秋葉神社趾に建設し正遷宮の典を挙げたり。
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