02笠原頼直が木曽義仲討伐を画策する



『箕輪記』宮下粛  天和4年 [1684]
※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。


笠原頼直が木曽義仲討伐を画策する

 又 高井郡に笠原平吾頼直といふ者あり
晴清忠義傳 高遠記 等に笠原平吾頼直は高遠の人にて 高遠の城をはしめて築けるよし見えたり これ笠原の地名あるによって忠義傳はしめあやまつて 高遠記其あやまりをつがれしなり 大塔記に笠原中務見ゆ 諸士傳考記に頼直の子孫の由 その系図をのす 覚束
(おぼつか)なし 中務は笠原にも住せしゆへ 笠原とは名のりしなり 頼直の子孫にはあるへからす

 木曽の起兵を聞て 木曽を討たんと擬す 村山七郎義直 栗田寺別當大法師範覺等か 密に木曽え志を通しけれは 市原に出迎て終日戦い暮し 箭すでに盡けれは重て戦へき術なく 飛脚を木曽か陣中に遣して事の急を告たりける


 去らはまつ 頼直を討んと大田切をすてゝ川中島え発向す 頼直その威勢に恐怖して 城四郎長茂を憑て越後へこそ逃行ける



管理人訳:
 また高井郡(現・須坂市・長野市・中野市・飯山市など)に「笠原平吾頼直」という者がいた。
「晴清忠義傳」「高遠記」などに「笠原平吾頼直」は高遠の人であり、高遠の城を初めて築いた、という記載があるが、これは「笠原」の地名が存在することにより「晴清忠義傳」がまず誤った記述をしたものを「高遠記」が引き継いだものである。「大塔記」に笠原中務の名が見える。「諸士傳考記」には頼直の子孫の記述と、その系図を載せているが確かなものかははっきりわからない。「中務」は笠原に住んでいたので「笠原」と名乗ったのである。「頼直」の子孫ではないだろう。


 笠原平吾頼直は木曽義仲が兵を挙げた事を聞いて、義仲を討とうと考えた。「村山七郎義直」や「栗田寺別當大法師範覺」などが密かに木曽義仲に通じていたので、(村山氏や範覺などと)「市原」で合戦、終日に及んだ。(村山氏や範覺側の)矢は既に尽きてしまい深手を負い戦う術もなくなってしまい、飛脚を木曽義仲の陣中に遣わして事の急を知らせた。


 そこで木曽義仲はまず「笠原平吾頼直」を討つため、大田切を捨てて川中島へ向けて軍を進めた。笠原平吾頼直はその威勢に恐怖して「城四郎長茂」を頼って越後へ退いた。


管理人考:
→晴清忠義傳
→高遠記
重て=重手=深い傷・深手
菅冠者=平氏側 vs 木曽義仲=源氏側
笠原平吾頼直=平氏側 vs 村山七郎義直+範覺=源氏側
→市原合戦