『上伊那郡高遠町兜城公園風景』 明治32年 [1989]
※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。
高遠城沿革
治承二年 [1178] 地頭 石田刑部
元暦元年 [1184] 笠原平吾頼直
元久元年 [1204] 鎌倉郡代 日野喜太夫宗滋
是ヨリ延元 [1336-1340] 迄ノ間 不詳
暦応 [1338-1342] 年中ヨリ 木曽義仲ノ苗裔 讃岐守源家村 建武ノ武功ニ依テ足利尊氏ヨリ得 嫡男 高遠太郎源家親 領之
其子 高遠太郎義信
其子 馬之助義房
其子 左衛門尉義雄
其子 左京太夫義建
其子 兵庫助義俊
其子 刑部義嶺
其子 豊後守義里
其子 左エ門尉義久
ト相続シ天文ノ始 憐ムベシ(あわれむ)高遠氏九代 百九十余年ノ星霜(せいそう=年月)ヲ歴テ(へて) 同姓 木曽谷ノ城主 木曽左京太夫義康ノ為ニ沈落セリ 是ヨリ木曽義康ノ郡代トシテ千村内匠守之
管理人訳:
高遠城沿革
治承二年 [1178] 地頭 石田刑部
元暦元年 [1184] 笠原平吾頼直
元久元年 [1204] 鎌倉郡代 日野喜太夫宗滋
ここから延元 [1336-1340] までの間は詳しいことは分からない。
暦応 [1338-1342] 年中から 木曽義仲の子孫である 讃岐守源家村が建武の武功によって足利尊氏よりこの地を得た。家村の嫡男である「高遠太郎源家親」が領する。
その子 高遠太郎義信
その子 馬之助義房
その子 左衛門尉義雄
その子 左京太夫義建
その子 兵庫助義俊
その子 刑部義嶺
その子 豊後守義里
その子 左エ門尉義久
と相続して来たが、天文 [1532-1555] の始の頃に、憐れにも、高遠氏九代、百九十余年の年月を経て、同姓である木曽谷の城主「木曽左京太夫義康」に攻められ領主の座を追われてしまった。この時から木曽義康の郡代として「千村内匠」が城に入り守った。