大手の高櫓権現と熊野権現
此者(神主 小池山城)代ニ 大出殿大手之脇之権現ヲ新林と申所江曳移シ候ハ 宝永年中 [1704-1711] 也 大出殿本城之節 大手之櫓之内ニ勧請有シ故 高櫓権現ト奉崇 大出殿落ヲ後 民(武?)家之鎮守ニ成 今ハ大手ゟ北之方之外堀 うめ立 畑ニいたし候処 右畑ゟどぢ出候 改尓今 地名どじ畑と唱来リ 則 御検地帳ニも御記し被置シ 扨又 城村鎮守也 右古城大手脇之社地ヲ 尓今 古宮ト唱也 右之謂ニ而 沢村ノ分ニハ 熊野権現 今 民家ニ而奉崇 宮木等 大キ成枯木有 此所 城入ヲ大手□として 井澤源五右エ門 搦手□として 近藤若狭と申
※赤字は管理人が加えた注釈や西暦など
管理人訳:
1704〜1711年の宝永年間、小池山城が神主だった頃に、大出氏の城の大手の脇にあった権現を「新林」というところへ移した。このあたりが大出氏の城だった頃、大手の櫓(やぐら)の中に勧請したので「高櫓権現」と呼ばれ、崇拝された。
大出氏が滅びた後は民家(武家?)の鎮守となった。現在「高櫓権現」は、大手から北の方角にある、外堀を埋め立てて畑にした所にある。この畑からは「どぢ」が出てきた。現在は名を改めて「どぢ畑」と言われている。検地帳にもそう記載されている。
そしてこの「高櫓権現」は「城村」の鎮守である。この古城の大手の脇の社地を、現在は「古宮」と呼んでいる。「高櫓権現」を、外堀を埋め立てた「どじ畑」に移したことから、現在「沢村」の鎮守は「熊野権現」となり、民家の中で崇拝されている。大きく枯れた宮木などがある。ここが城の正門の「大手」であり、伊澤源五右衛門の場所が城の裏門の「搦手」である。この裏門・搦手の場所を「近藤若狭」という。
管理人考:
「どじ」とは何か・・・・篠田徳登氏は「伊那の古城」の中で
”「どじを踏む」の「どじ」だろうか?”
と書いている。「どじ」が出た・・・という表現は、かなり謎である。これはもしかして「土人=どじん=埴輪・土偶」なのでは? と思い浮かんだ。「土人」が畑から出たので、そこを「土人畑」と呼んだ。それが訛って「どじ畑」になった、と。土人形や土偶のことを「土人=どじん」と呼ぶこともあるらしい。👉Wikipedia 土人 どじん
現在の高橋神社のある敷地の中に、実は円墳がある。神社建物のすぐ裏で、社殿と道路の間である。少しこんもりと盛り上がっており、道からも見えるのだが、古墳があるからには、なにか土器や埴輪のようなものが出てもおかしくない。また、土偶だとしたら、現高橋神社のすぐ近く、数百メーター以内に縄文時代の遺跡である「熊野上遺跡」や「丸山遺跡」もあるので可能性が全くない、ということでもない。
現在の高橋神社は大出城の外堀を埋めた所に立っているという。古墳はもちろん大出城より古い。現在古墳が残っているからには、外堀というのは円墳の東側、つまり社殿より東にあったのだろう。そこを埋め戻した畑から「どじ」が出た。そして「どじ畑」と呼ばれるようになり、しばらく畑として耕作された。その後に、そこへ高櫓権現が移された。という経緯のようだ。
大手(おおて)=城の入り口・正門
搦手(からめて)=城の裏手・裏門
尓=原文はくずし字 ➡︎ に
ゟ=合略文字 ➡︎ より
扨 ➡︎ さて
而 ➡︎ て
「近藤若狭」という地名も気になる。大出古城の主は坂西氏であったが、坂西氏の元の名は近藤である。四国から鎌倉へ移り、その後飯田に移ってきた頃は、まだ「近藤」と名乗っている。そしてその後、四国徳島の坂西から名をとって改名した。その子孫が大出に城を構え、そのお膝元である城村の中に、また城の搦手=裏口に位置する場所が「近藤若狭」である。近藤若狭守という人物がいて、その居住地やゆかりの土地だったのだろうか・・・・