大出古城〜沢村〜羽場村への鎌倉街道 所在地:辰野町/箕輪町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
南の ”沢村” から羽場に向かって古道がある。この道は根元記によれば、沢の大出氏の城大手前を通り、羽場村の橋場(今も天竜川に橋あり)を通り、樋口村筑前殿の前を通った大通りなり、と。これが鎌倉街道と呼ばれる道であろう。羽場城前から東に下りて、天竜川を渡って下田から赤羽に至る。[p32]
これ(元高橋神社参道の鳥居)から北、電車の線路をはさんで西東に、大きな市場があって、ここを西から西町家、中町家、東町家とよんでいる。東町家に、酒やという家と邸宅がある、そこの坂を市坂とよんでいる。この市坂は大出の大永寺の北の掘に通じている。今の田の中の河原を行く道は、古地図にもないし又、昔からの本道は大永寺に通ずる道だといっている。[p60]
昔の道は王墓の東、丘の下の水田ぎわを通って深沢川をわたり、城の下から斜めに登って三の掘を通って北に出ている。今度 [1964-1969時点] 、新国道があいて城域の形はすっかり変わり、本丸辺をななめに掘りさげて深沢川をうめたて、ガードレールでかこまれた立派な道になったが、昔は大出の坂を登るのは一寸した難儀であったらしい。[p63]
松島の北のはしに、諏訪道と松本道とのわかれる追い分けの見返り柳と石碑などがあるが、脇坂の図面 [1617-1672] にはこの追い分けからの道はなく、やはり大出部落をとおって大永寺の北の掘を下って沢村に出た。堤防の出来ない頃の天竜川、大出の河原は天竜川の遊び場で、ここでうずをまいてまがりくねって流れていたものだった。田の名をみても、その様な名の田が多い。しかし、伊那にはめずらしく、奈良時代ごろに地割りした地名が残っている。[p63]
管理人考
沢村から樋口までの古道をいろいろ探りながら歩いてみると、沢の部落を出たすぐのところ、左手に庚申さまの石碑。そこから北に少し行くと、左手に「手長神社の元宮の故地」がある。そのあたりの道の形状が両側の畑よりかなり高く盛り土がしてあり、道だけが一段高くまるで堤防の様な形状をなしている。
「手長神社の元宮の故地」は「みたらしの池」という涸れない泉にあった。これは想像だが、もしかして、かつては今よりも水量があり、一帯が湿地になっていたのでは?と思ったりする。この道はその湿地と田畑の境目、堤防の様な役目もしていたのでは・・・・
その先低い段丘を登ると、飯田線とオリンパスの駐車場に出てしまう。地図上ではここで飯田線沿いにきれいに沿って行くが、多分、飯田線やオリンパスが出来る前はその先の「手長神社元宮」前まで自然なカーブで道が続いていたのではないだろうか?これは古い航空写真などが手に入ったら確認したい。
オリンパスエリアを抜けると左手に桜の古木があってここが「手長神社元宮」の参道入口。その先はやはりもう一度低い段丘を登る。
その坂の途中左手に、土地の人が管理しているであろう、石碑が何個か立っている。道はそのまま北へ続き、新羽場城の大手近くに到着。ここで羽場城には入らず右に直角に曲がり、大きな段丘を下り、天竜川を渡る。今でも橋がかかっている。