松島城(戦国)

松島城 所在地:箕輪町



『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆



 これ(荒神山の合戦)より先、高遠頼継は諏訪併合に野心をもって甲州軍が諏訪を攻める時は応援して宮川以南を領有したが、甲州軍の守兵手うすとみるや一挙に諏訪を占領しようとして失敗。杖突峠より追っぱらわれて高遠の奥に逃げこみ、やっと息をしていた。この高遠勢の諏訪攻撃を応援したのが松島にいた禰宜(ねぎ)(神主)の松島満清であり、福与の城主次郎頼親であった。[p46]



 有名な王墓は西に向いているというが、その南に明音禅寺が沢から移ってここに開基され、今日まで続いている。その南の高台にあったのが、松島の本城であった。

 前にもたびたびかいた様に、ここに居た松島豊前守、武田に従わず、狐島にて処刑され黒河内の八人塚に葬られたという。「伊那武鑑」という本によると、天文二年 [1533] 、海野氏の分流、矢島肥後守信清の孫ここに来たり。松島氏と名のり、松島肥前守信晴築城、知行五百貫文、その子矢島豊後守信久、武田のためにやられた、とある。しかし弟源五郎は信玄のために取り立てられて家をついだが、天正十年 [1582] 、織田のために亡ぼされ、家名をうしない浪人となる、とある。松島氏は家名をうしなってから世にかくれて、この辺に沈んで暮らしていたにちがいないが。[p35/36]


 松島本城は武田の一掃にあい、その間五十年、三代、松島の城下町の繁栄を足下にながめながら父は信玄に殺りくされ、弟源五郎は織田のために追放、身分をかくして民間にひそんで余生を送った。武人の常の事、天保六年 [1835] 、十三世の孫という諏訪藩松島履卿は祖先の墓参の折、追憶の思いにたえず、詩をささげた。

 松柏青々として祖墓をおおう

 春風秋雨来度めぐり来たるか

 苔はむし草は荒れたれど掃う人なく

 古塁の崩れは剣戟をうずめ

 廃濠の中に残兵の姿をみる

 足音をしのび乱れ髪をかきて

 うたた昔情をしのびて立ち去りがてぬ

 松柏何を語らんとするか  [p37/38]


 松島城は箕輪中学校の北隣りにある。中学校の北裏にあたる木戸ともいうべきか、登ってすぐ右の一画は墓地と社地。何につかうものか、堀切りで囲まれている。これが、城の大手にあたる入口であろう。坂を登りきると学校のプールがある。プールの道を北にすすむと深さ五米位かU字形の五十米幅の掘、この掘をこえた所に一畝位の面積に桜の古木数本と、棒だけになったさわらの木が二、三本、一米位の土まんじゅうの塚。この塚に、松島氏の墓標が立ててあった。蔓草は塚をおおい、台風で倒れた、さわらの枯木はそのままで、牛の爪切り場の木枠が立ててある。広くて大きな石碑があるのでみると、西天竜開田の成功記念碑であった。この記念碑の原から西、八十米位の所で浅い掘が終っていて、この堀切りは北に掘られて城地をかこんでいたのではないかと思われる。この塚のある城地が城の中心で、北に百米、城の北の丸に堀切り二本が残っている。この城地は東西に百米、南北三百米で、五町歩にも及ぶ広大なものだったらしい、しかし、守備には余り有利な地形でなく、東面と北もわずか十米たらずの台地だが、前面に肥沃な耕地と豊富な湧水をもって、居城には好適な所である。[p38/39]


松島に本城をかまえていた松島豊後守の領地は永銭千二百貫文といわれ、又、甲州割で勘定すると四千五百貫文だという。[p39]





『松島城跡 現地案内板』より


「松島氏城跡 本城跡」 役場庁舎の建つこの地は、松島本城といわれ、福与城主藤沢氏の麾下(きか)にあった松島氏の居城であります。天文年間 [1532-1555] 、甲斐の武田信玄の伊那攻略には、伊那一円の武将が結束して武田軍と戦いましたが敗れました。

 この松島氏は、伊那郡中核の一人とされ、伊那狐島で処刑されたと伝えられましたが、伊那市長谷黒河内の艮城近くに里人によって葬られ、八人塚と称されています。

 松島氏の墓域は、庁舎のすぐ西側にあります。

松島城跡の案内板 2015撮影




『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より


 当地の豪族松島氏の居城跡は現在の箕輪町役場付近で濠が残る。松島氏は「神氏系図」によれば藤沢氏の麾下で有力な武将であった。弘治2年松島信文はほかの7人の武士とともに現在の伊那市孤島で斬首された(甲陽軍艦)。すなわち八人塚伝説の1人であった。




『松島氏の墓域 現地案内板 箕輪町教育委員会』より 昭和52年 [1977]


「松島氏の墓域」 この地は松島城跡で、城域はもとは東西約二百メートル、南北約三百メートルにおよぶ規模をもっていた。墓は、城域の中央やや西北にあたり、二基のうち一基の角柱墓石には

 享禄辛卯四年七月十五日卒(一五三一)[1531]

 金剛院殿庭岩宗雪大居士

 前松島城主対馬守頼実公墓

とあるが、これは小笠原家譜によると、明音寺を開創した松島氏二世政行のことであり、その左にある自然石の墓碑は、弘治二年(一五五六)[1556] に没した三世貞実のものである。

 松島氏は小笠原信濃守長清の末葉で、小県郡からこの地に来て土地の名をとり松島氏を名乗ったと伝えられ、この墓は江戸時代の中ごろ、明音寺の住職が造ったものである。

箕輪町教育委員会


松島氏の墓所・箕輪町役場のすぐ西 2015撮影

松島氏の墓所の案内板 2015撮影