『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶 貞享3年 [1686]
「小平物語」より ※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。
この事(諏訪頼重と武田晴信の和睦・祝言の件)四方にかくれなく、長時(小笠原長時)大いに怒って、
「頼重、武田晴信と縁をくみ、幕下(ばっか=配下)になること、是非もなし(しかたがない)。これは我らの居城の林・深篠(深志)、あるいは伊那へ攻め入るべき計策(はかりごと)なり。この上は、諏訪頼重を踏み潰し、晴信と有無の一戦」
と、あい定められ、持分へ陣触(じんぶれ=出陣を命じる)あり。
長時公、三千の人数にて、岐岨殿(木曽どの)と諏訪峠を超え、下諏訪の城を攻め詰めして、それより上野原の城へ取り詰め、ニ三の曲輪(くるわ)を攻め破って、本城へ押し詰めるところに、武田晴信、後詰めとして信州蔦木まで出馬あり。
先手、板垣駿河守・飯富兵部・甘利備前、諏訪のうち、青柳まで参らるるところ、長時公舎弟 信定、伊那衆の大将にて、
・下條 ・箕輪頼親(藤沢頼親) ・保科弾正 ・このほか伊那衆残らず
・坂西 ・洗馬 ・赤澤 ・古畠伯耆
先手にて、長時公の旗本より懸けて、板垣・飯富・甘利を切り崩し、首五百あまり、長時方へ討ち取るなり。
注:古畠氏、藪原に住し、当時 藪原殿と称す。今の寺畠氏 その末葉なり。
甲州衆、早々退散なり。故に諏訪殿、小笠原長時公へ和睦によって、長時公も伊那衆も御馬入る(撤収する)なり。