『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶 貞享3年 [1686]
「小平物語」より ※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。
それにつけ(前年に小笠原が諏訪/武田を攻め、諏訪頼重が小笠原長時と和睦した件)、明年、天文十三年辰 [1544] の歳、頼茂、甲州へ出仕なられる所、甲府柳町において、諏訪殿 生害(自害=自殺)なり。
よって諏訪衆、甲州衆とまた合戦をつかまつる所に、諏訪左馬介、不慮に討ち死にいたされ、その後、諏訪は武田の支配になるなり。
諏訪衆、ことごとく武田左馬頭信繁公の幕下(ばっか=配下)になり、それより、木曽・小笠原・伊那への先をつかまつるなり。下諏訪には板垣信方、城代にまかりあり。同所の小尻に取り手を構え、伊那への手伝のためなり。
注:諏訪頼茂の生害ありしは、天文十四年正月 [1545/1] なり。十三年 [1544] にあらず。福与の城、攻められし時、頼茂も先手に加えらる。「二木寿斉記」に見ゆ。
この時、甲州の武田へ、諏訪衆一々人質を出し候なり。その子細は、
・甲府と諏訪境までは七八里 [27.5k - 31.4k] あるなり。
・その上、諏訪衆、たびたびふりを致し候。
とて、かかる如く厳しく御仕置きなられ候よし。
小平円帰、物語る、くだんのごとし。