下古田の合戦 関連地:箕輪町
「神社資料目録」箕輪町教育委員会より 平成17年 2005発行
白山神社概要 弘治2年 [1556] 当地に小城塞が築かれていた。元亀元年 [1570] 9月武田信玄の知行地となり、近郷古跡誌によると、天正年間 [1573-1591] 当地の城塞及び白山神社は兵災に罹り(かかり)宝物記録多数焼失したと伝えられる。
管理人考
「神社資料目録」にある「小城塞」や「城塞」というのは柴氏の古田城のことであろう。城山という名前も残っている。
羽場城主であった柴河内守の二男、柴氏之太夫信純が天文10年 [1541] に分家し下古田に築城したという記録が子孫の家に残る。
「神社資料目録」によると、古田が武田信玄の知行地になるという年が、元亀元年 [1570] 9月というので、福与城が天文14年 [1545] に落ちて上伊那全体が武田支配下になってからしばらくの間、下古田や上古田地区はまだ武田に属していなかったのか・・・?木曽系の勢力が西山伝いにあって、武田も手をつけていなかった・・・・など想像してしまう。
同じ家の資料に天正元年 [1573] 3月6日の夜に武田勝頼が古田城を攻め、落城、討死したと伝わる。「神社資料目録」にも、天正年間 [1573-1591] 城塞及び白山神社が兵災にかかり、宝物記録多数焼失したと伝えられる。
信玄の亡くなる一ヶ月前に、信玄の知行地であった下古田に、その息子の勝頼が攻め入って来るとなると、元亀元年 [1570] 9月から武田の支配下になったものの、反旗を翻し武田に敵対の意志を示したため、武力で攻められた・・・・という様なことも考えられるだろうか。
下古田から西山伝いに上古田、一宮、富田と続くが、富田の向山氏の家には「柴がたてつくので柴をこらしめた」という様な内容の伝承が残っているという。向山氏といえば、武田勝頼が高遠に入る時に、甲斐から勝頼に付けられた、勝頼直属の家来である。向山氏の本拠地は高遠城に近い、手良などの天竜川東の伊那地方だが、ここ富田には向山という家が大量にある。下古田を含む西山つきのエリアを勝頼軍が進行攻略し、その地に向山氏の一部が分かれて本拠を移し、再び反乱が起きないように前線基地を置いたのでは・・・・と考えてしまう。
また、西山つきのルートはそのまま後の権兵衛峠に山沿いに続き、そして木曽へと続く。当初武田に抵抗したものの、その後服従し、武田信玄と姻戚関係になった木曽義昌がいる。勝頼は木曽義昌にとっては義理の兄である。彼は勝頼のやりように大変不満があり、最終的には勝頼を裏切って、武田家の滅亡のきっかけとなる織田信長との盟約を結ぶことになる。信玄が1545年に福与城を攻略し、上伊那地方の豪族はここで武田の参加に組み入れられるが、西山つきのエリアはちょっと話が違うのかもしれない。それが福与城攻略から25年も経った後の下古田の武田家知行地化なのではないだろうか。
ここで時系列を整理してみる。
1541 柴氏、下古田に築城する
1544 信玄荒神山を攻める
1545 竜ヶ崎が落ち、福与も武田により落城(このあと上伊那は武田支配下に)
1570 9月、下古田が武田信玄の知行地になる(25年後ここでやっと信玄の支配下に入る)
1573 3月、武田勝頼が攻めて古田城落城、白山社も被害にあう。(武田支配から2年半後)
1573 4月、武田信玄が死亡。
天正元年 [1573] 4月 信玄死去、武田勝頼が家督を継ぐ。高遠時代の勝頼家臣団と以前からの信玄家臣団とがうまくいかないという状況がこの後でてくる。下古田が攻められたのはこの年の3月。
信玄が天正元年 [1573] 4月に死亡した時、勝頼はどこにいたか。高遠に残っていたのか。そのとき地元の勢力はどう動いていたのか。勝頼と対立していた構図があるのか。
下古田が攻められたのは天正元年 [1573] 3月6日の夜。信玄死亡の1ヶ月前にどんな流れがあったか。