平出の古ル城 所在地:辰野町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
伊那では平城は極まれであるけど、平出の古ル城は、天竜川の流れを西に、東は沼田、南は荒神山を盾として出来ていた城であった。建武の新政も結局、北条氏と足利との戦に、各勢力が離合集散しながら国中の争乱を引きおこした。
木曽の讃岐家村、尊氏方について武功あり、その功により本領の木曽に伊那を相添えて安堵された。その節、この城は家村の家臣某という者の出張所といわれる。木曽は小笠原の系統で武家方であった。[P19/20]
諏訪は宮方(南朝)であって、伊那とは対立関係で辰野はその接触点であった。この城にはのちに大隅某という者が居住していたという。
天正年間になり武田の占領地となると、曲り淵荘ヱ門というものが暫時ここに居住していた。その後の様子は不明だが、天正十年三月、高遠城が陥落した時、没落し廃城となったものらしい。古城の名もそこから出たものだろう。荘ヱ門らはのち家康の家来となり、名も曲淵甲斐守とあらためられて存在したという。(「伊那郡記」)
国鉄宮木駅の東方、川を超えた所に、こんもりとした小丘の上に欅の大木の森がみえる。古ル城の一郭で、鎮守の杜と思う。古城はすでに溝も塁も取りこわされて昔の姿を想像することは出来ないが、西はしは天竜川の流れが岸を洗って、容易に敵をよせつけない。まわりは、葦原や泥田であった様で、城域は他によくある様な空堀でなく、水濠であったと思う。[p20]
形見に欅の森(辰野中学)
城の形は全然想像出来ないが、古城の形見が城の守りの森に残っている。この欅の森は、丁度東西に道路を開けたのにぶつかって、木を切り丘を崩す話が持ち上がったが、人々に親しまれてきたその姿は、我が郷里の思い出のシンボルマークだ。他に何がある、という反対の声が強く、遂に道を曲げて、この宮木から平出への新道に鎮守を残している。辰野では他でも同じ様な話を聞いた。邪魔者は消せ!という昨今の風潮に対して、美事というべきか。森と小鳥と青空、青葉のなくなっていく文明は人の体と精神を腐らせていく様だ。古城のあとには辰野中学の新館が建っている。[p20/21]
古城の欅の森は根元が一本で、そこから二抱えもある大欅が五、六本生えて、文字通り天空を摩している。さざ波は岸を荒い、ささやきながら流れていく天竜の水面に、来る年も来る年も、落葉を浮かべては流していた欅は何を語らんとするのか。古城の跡には辰野総合中学が建っている。白一色のその壁は、人々に昔のことなどは忘れさせてしまうのだろうか。
関連項目:曲り淵の館
城主:木曽家村の家臣 → 大隅氏 → 曲り淵荘ヱ門 → 廃城