『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶 貞享3年 [1686]
「小平物語」 ※読みやすい様に管理人が箇条書き・()などを加えています。
第九・小平道三 財宝を武田殿 御取上之事 附 諏方山浦日向ニ金 埋ル事
出雲入道道三のこと。「金銀、だいぶ有りのよしにて聞き及び、御用ゆえ、指し上げ候え」と長閑齋(ちょうかんさい=長坂光堅)を以て、武田殿より仰せられ候あいだ、一門 相談の上、碁石金(甲州金の初期のもの)を千両 瓶子(へいし=坪の一種・酒を入れる)に入れ、指し上げる。
またその後、仰せられるは、御両人様へ「陰陽の玉の牀卓(=床卓)」「定家の色紙 廿枚(20枚)」指し上げるべしと仰せられるところに、道三申す様「『玉の牀卓』は指し上げる申すべし。『霰釜』(あられがま=茶の湯釜の一。胴の地紋につぶつぶを鋳出したもの)のことは、伊勢へ寄進つかまつり、『定家の色紙』は先祖より代々相伝わる珍宝ゆえ、御免に預かりたし」と申し上げれば、信玄 大いに怒り、内々、竊に(窃に=ひそかに)聞き伝えしは、
「頼重類孫に心入れあるの由ながら、去る甲府に人質を差し置き者どもにて、疑わしき事なしと思う所に、不届き千万なり。道三を甲府へ召し寄せられ、家財没収つかまつるべし」と、典厩(武田信繁)まで仰せられるにつき、
道三早くも聞きつけ、嫡子 辰之介に申し付け、右の次第を語り、心安き伜(せがれ?)もの五六人に申し付け、「山浦道三屋敷日向」という所に土を覆い、水、貳斗 [ 約36ℓ] ほど入る壷に碁石金を入れ、夜中埋めるなり。その上に大石を証しに居置き帰るなり。
さて、その後に道三は、甲州へ参府する所に、典厩にお預けにて、諏訪の金銀財宝一々、取り給うなり。
諏訪殿類孫へ努々(ゆめゆめ=決して)左様の心入れ仕らず由、有体(ありてい=あるがまま)に申し上げるなり。
諏訪へは長閑齋隼人佐(長坂光堅)を遣わされ、所の町人・百姓、もっとも道三家来までに、御穿議(せんぎ=取り調べ)強くあるよし。皆、虚説にあい極まる(結果が出る・結論が出る)。もし逆心においては、道三を詰座敷に置き給うなり。
この節、諏訪に罷り在る(まかりあり=ある・おるの丁寧語)茅野・両角、夜通し甲州へ参り着き、御訴訟申し、漸く(ようやく)御免(解放)にて、本知(領土)半分にて帰るなり。武田・小笠原・平賀、兄弟にて、平賀の末たるにてよって御気遣いに思し召す(おぼしめす=お思いになる)とも。いはば(言うならば)御追罰(後から更に罰する)のの思し召しなり。然れといえども二三年過ぎて、また古(いにしえ)のごとく富貴(ふうき=金持ちで、かつ地位や身分が高いこと)に成りたりとなん。
それよりも伊那・松本の御先をはじめとして、所々の御陣に二心(ふたごころ=裏切りの心)なく、数度の戦功ありのよし。迚も(とても)この砌(みぎり=その時)、信州治まり、御心にかかる事なく、気遣い無しのよしによって、諏訪衆、各(おのおの)人質、御宥免(ゆうめん=罪を許す)なり。
管理人訳:
09.「武田が道三の財宝を取り上げる〜金を埋める」