沢から移った明音寺 所在地:箕輪町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
有名な王墓は西に向いているというが、その南に明音禅寺が沢から移ってここに開基され、今日まで続いている。[p35]
(大出)古城の城主坂西系の大出氏が亡びたのは南北朝時代のことで、想像するならば、この時の合戦で沢村は殆んどかい滅、四散おびただしい人骨などはこの時の所産であろうか、今は無縁仏の供養碑が立っている。この上の原は蓮台といい、共同墓地となっている。[p60-61]
建武年間 [1334-1336] 、木曽又太郎家村、権兵衛の峠をこえて伊那に侵入、大出殿討死。ここにあった月照山金剛寺は大出氏と松島氏の位牌所であったが、焼きはらわれてのちに松島に移って、今は金剛山明音寺となって存在している。[p61]
『箕輪町歴史行脚』小川竜骨より 昭和54年 1979年 出版(原文は詩調)
(沢の)西村小路の東西に 大六天社 金剛寺 盲神堂(めくらがみどう) 弥陀畑 弥陀寺の跡を訪(おとな)へば 古びし石の幾佛
淵の深さは幾ばくぞ 観音堂お釣鐘が底に沈むと伝はれり [p1]
管理人考 2015
沢の「西村小路」の東と西に「大六天社」「金剛寺」「盲神堂」「弥陀寺」という神社仏閣が存在したようである。しかし現在は存在しない。建武年間 [1334-1336] 、木曽又太郎家村の侵入によって坂西氏が討死した際に、集落ごと壊滅したので、その時に破壊されたのだろうか。金剛寺は「月照山金剛寺」のことと思われ、後に松島に移り「金剛山明音寺」となって宗派などの変更があったのではないか。
明音寺のホームページでは「曹洞宗 明音寺」となっており、享保三年 [1530] に開山となっている。どこかのタイミングで一度断絶したのか、宗派がかわったのか、詳細は調べる必要あり。
「曹洞宗 明音寺」歴史 明音寺ホームページより
明音寺の歴史 明音寺は享禄3年 [1530] 、松島城主小笠原氏が開基となり、静岡市清水の真珠院3世大仲霊乗大和尚を勧請し開山されました。本尊は城主が深く崇敬していた室町時代作の弥勒菩薩坐像です。末寺は明光寺、真福寺、守桂寺、正全寺、秋葉寺の5ヶ寺です。上写真の山門(楼門)は享保3年 [1718] に建立されたもので、当地方を代表する山門として、箕輪町の有形文化財(町宝)に指定されております。山門額には江戸時代に当山を祈願所としていた公家富小路家より賜った「獅子吼琳」の号が掲げられております。
『松島氏の墓域 現地案内板 箕輪町教育委員会』より 昭和52年 [1977]
この地は松島城跡で、城域はもとは東西約二百メートル、南北約三百メートルにおよぶ規模をもっていた。墓は、城域の中央やや西北にあたり、二基のうち一基の角柱墓石には
享禄辛卯四年七月十五日卒(一五三一)[1531]
金剛院殿庭岩宗雪大居士
前松島城主対馬守頼実公墓
とあるが、これは小笠原家譜によると、明音寺を開創した松島氏二世政行のことであり、その左にある自然石の墓碑は、弘治二年(一五五六)[1556] に没した三世貞実のものである。
松島氏は小笠原信濃守長清の末葉で、小県郡からこの地に来て土地の名をとり松島氏を名乗ったと伝えられ、この墓は江戸時代の中ごろ、明音寺の住職が造ったものである。
箕輪町教育委員会