坂上田村麻呂 諏訪明神を鳥居原に勧請
圡地鎮守 郷安全ノ為 常ニ崇敬ノ諏訪明神ヲ伯耆原庄山手尓勧請 御射山明神止号称ス
春秋ニ季 祭祀ス
夫ヨリ年々此地圡民共ニ御射山明神ノ大祭執行于時
村名 祭時神輿ノ出場所
一 神輿出ス村ヲ 神輿場村
一 神田畑ヲ 田畑村
一 神門村 神戸村
一 神地ヲ 神園村
一 屋根替ノ時 葦替ノ茅 納メシ村ヲ呼テ 大茅村
其他 鳥居原 古ノ字起ル
后ニ美濃波一般ノ大祭ニ至リ年々春秋ノ祭ニ女男共ニ遊日○リ
神楽ノ神女ノ村 八乙女村ト称ス
古代 八乙女村神子◯◯云之
遊日=あそびび=近世の農村の休日
管理人訳:
土地の鎮守と郷(さと)の安全の為に、日頃から崇敬されている「諏訪明神」を伯耆原(ふきはら)庄の山の方に勧請する。「御射山明神」として知られている。春と秋の二回、祭礼を行う。それから年々、この地は地元民によって共同で大祭を執り行ってきた。その時の村名、祭の時に神輿を出す場所は、
・神輿を出す村 「神輿場村」(現在の伊那市御子柴か)
・神田畑を 「田畑村」(現在の南箕輪村田畑か)
・神門村 「神戸村」(かみと? 現在の伊那市西箕輪上戸=「あがっと」のことか?)
・神地を 「神園村」(現在の伊那市御園)
その他に「鳥居原」という昔からの地名も起こる。
のちに箕輪全体の大祭になり、毎年春と秋の祭りには男女共に遊日となった?
神楽(神に奉納する歌舞)の神女(巫女)の村は「八乙女村」と呼ばれる。
古代、八乙女村は神子〇〇という。
御射山社阯の古碑
御腰場 字 鳥居原ニ古碑在ス 文ニ曰
神子柴邨中
御射山社華表之礎在焉 原 大同四年己丑 [809] 之歳 坂上田村丸願勅祉而建本社
後経四百五十一歳 文應歳庚申 [1260] 再造
又過三百二十六歳 天正十三歳乙酉 [1585] 十一月 地 震動而 遂破壊也
尓来物換星移 今茲 下亥巳度 二百四十三歳ノ而 造営不亦 復成矣
家々空歎而已 舊貫既已湮 況況後来 基礎 舟河知平周為記
其舊立(?)碑云 ◯牛◯
寛政十年歳◯◯亥 [1798] 秋七月 日
神子柴邨中 御射山社 云之
右古碑 現ニ春日街道筋ニアリ 后天龍川東福與村ニ御射山移リ云之
管理人訳:
御腰場の字「鳥居原」に古い碑があり、その碑文にはこのように書いてある。
御子柴村の中に「御射山社」の華表(とりい)の土台が残っている。
初めに大同4年(809年)の年に、坂上田村麻呂が勅(天皇の命令)を願い、幸いにして社が建てられた。
それから451年が経ち、文応の庚申(かのえさる)の年(1260年)に再び造営された。
また326年が過ぎ、天正13年(1585年)11月、地が震動して遂に破壊されてしまった。
それ以来(尓来=じらい)、世の中が移り変わり(物換星移)、今年(今茲)下亥 すでに243年にわたって造営や修復ができていない。
人々はむなしく嘆くのみ、昔からの慣わし(旧慣)すでに埋もれてしまい、この後(後来=こうらい)元の場所がわかるようにするために(舟河知平周?)記す。その故事を碑に建てた。 ◯◯◯
寛政10年(1798年)亥 秋 七月◯日
御子柴村中 御射山社
右の古碑は今も春日街道沿いにある。のちに天竜川の東の福与村に移るという。
※赤字は管理人が加えた注釈や西暦など