『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆 [1964〜1969]
(箕輪)北小学校の西に保育園がみえるが(2015現在のフレンドワーク)、その丘の辺から南一帯を古城とよんでいる。丘の斜面を熊野、熊野神社があったらしい。電車の窓から西、松島から沢に入る所の田のあぜに鳥居の形をしたものが建っている。こわれると又、誰かより集まって新しくするらしい。村の人の話によると、鳥居の形だという。昔の古い鳥居はこんな形をしていたものかなと、時々見なおしてみる。[p58]
この長橋の西に掘割りがみえる。これが古城の大手の掘あとだ。この古形をなした鳥居は城に入る所に祭った高橋神社の鳥居であった。今はその神社あとに石碑が一つ、古宮とあある。根元記によると、この高橋神社はもと高櫓(たかやぐら)神社といったものを略してこう云うようになったとのこと。この高橋神社は、はるか西の方に転移、春日街道の西 大出の西北の森に移ってしまった。[p59]
阿波の国(現徳島県)に近藤六郎周家(ちかいえ)というものがいた。源の義経四国渡海の時案内人となり、その後義経に従って軍功をたてたが、義経が義経が兄頼朝と不仲になると恩賞にあずかるどころか、流浪せねばならなかった。しかし、元来の功労を思われて、諸国に地頭をおく制を定めた時、伊那の郡の地頭職となり飯田郷の松原という所に居をかまえた。ここを近藤林というそうだ。のちに姓をあらためて坂西といった。それが建保年間 [1213-1218] 、今の飯田嬢のある所へうつり、城郭をかまえた。[p59]
建保二年 [1214] 、将軍実朝の時、坂西長門の守の二男兵庫頭(ひょうごのかみ)というのに伊那の領地を賜わり、大出に居住、箕輪を領すとある。飯田城の奥に祭ってあった熊野権現を分神し、大出城の大手の地に祭った。
飯田の真言宗の行者、伊殿井伯耆(ほうき)という別当職であったものを呼びよせて住まわせた。今でも沢部落の一番北の天竜岸にその居館のあとがあり、掘と家の前に土居のあとがある。その北に鎮守の社宮神という大木の森があった。[p60]
しかし、この大出殿は木曽氏に亡ぼされ、伊殿井家も絶家となり、のちに天文年間、武田の配下であった有賀讃岐守がこの居館に住まうことになった。今も、有賀という人の住宅地であるが、その先祖との関係ははっきりしない。[p60]
『管理人考』
別当とは寺院の寺務を統括する長官である。ということは、沢部落に伊殿井伯耆が寺務を行う寺院があったということか?沢には西光寺があるが、こちらは南北朝のあと北大出から移って来たというので、伊殿井伯耆の時代より新しい。現在松島にある明音寺の前身が大出古城近辺にあり、木曽氏の攻撃により坂西氏とともに壊滅したという。どの寺院が伊殿井伯耆と関連があるのか。
『角川日本地名大辞典 20 長野県』角川書店 より [1990]
嘉暦4年 [1329] 3月日の鎌倉幕府下知状案に「七番五月会分……右頭、飯治(沼)・中越・大井弖三ケ郷地頭」と見える(守矢文書/信史5)。
同年 [1329] の諏訪大宮造営目録には「伊那郡……同(外垣)五間 大井弖」とあり,造宮役を負担していた(信史5)。
(大出の)地内には深沢川と天竜川の合流する付近の河岸段丘を巧みに利用した平山城形態をもつ大出城跡があり、壕跡も明瞭に残る。城跡の北西に城村(じょうむら)という集落があり、城下町の面影を残す。この大出城に拠ったと伝える大出氏は建武年間 [1334-1336] 木曽家村の侵攻にあって没落し、一族は長田に潜み、藤沢氏の勢力伸張とともに同氏の配下になったという。
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
この古城の範囲はかなり大きいもので、外堀のうめ立地に城の大手に祭った熊野権現と白山権現を移したのが今の大出の氏神の森で、高橋権現という、この辺を "ドヂ畑 “ といった。失敗したことをドヂを踏んだというが、このドヂとは何のことかわからない。[p60]
大出の古城の本丸は全くあとかたもなくかっているが、掘と地形をみると、電車の西の窓から見えるがけくずれがあった所を中心にしてかなり大きな範囲をもった城で、南は大永寺の北の掘道を境としたものであろう。電車でみえる鳥居の原始形のようなもののある所も掘形をなしている。
これから北、電車の線路をはさんで西東に、大きな市場があって、ここを西から西町家、中町家、東町家とよんでいる。東町家に、酒やという家と邸宅がある、そこの坂を市坂とよんでいる。この市坂は大出の大永寺の北の掘に通じている。今の田の中の河原を行く道は、古地図にもないし又、昔からの本道は大永寺に通ずる道だといっている。[p60]
大出のおおいでと呼ぶ地名は、北小野にもあるが、湧水の出る所に多いとは小野の人の話で、ここ(大出古城エリア)も古出の大出ととなえたとある [p63]
箕輪とは、城下のことをいうそうだ。古城がこの大出沢村だとすると、箕輪の名の発祥もこの辺からかも知れない。飯田の近藤氏が大出と沢との間に古城をかまえ、その城下に、町家を作り、市場をもうけた。城の下の居館などのある所を山下(さんげ)、小屋、みのわ、などと云ったそうだ。古城の高さ約二十五米の斜面一帯を郷士窪といい、一面に青木林と欅、その間に民家や寺の屋根が点在いる。[p63]
管理人考 2015
近藤とは「近江の藤原」から来たものといわれる。その近江の藤原氏が「近藤」と名乗り、のち、阿波の国などに勢力をもった。
平家物語には「平家物語・巻の十一 勝浦合戦」に「坂西の近藤六親家(ちかいえ)」という者が登場し、四国へ上陸した義経に味方している。
坂西とは徳島の地名で現・板野郡あたりだと思われる。ここを領していた近藤氏が後にこの地名をとって坂西氏を名乗ることになる。
安元3年 [1177] に起こった「鹿ヶ谷の陰謀」で平氏打倒を目論んだという理由で平清盛によって西光ほかが処罰される。その西光の六男が近藤六親家である。近藤六親家は処刑を免れて、平氏に仕えたが、のちに源義経に味方し平氏打倒に走った。
義経と頼朝が不仲になり、義経一行は奥州へ逃亡するが、近藤六親家も義経に同行している。しかし越後で暇を出され、ここで義経と分かれる。その後飯田に地頭となって来るまでの来歴は不明だが、越後までは義経と行動を共にしていたらしい。
(近藤)西光 → 六男・近藤六親家(周家)→→→ 坂西淡路守 → 坂西長門守 → 二男・坂西兵庫頭
飯田城の奥に熊野権現が祭られていたとのこと、現在 [2015] の飯田城跡の突端部、「天空の城三宜亭・飯田温泉」がある敷地内に熊野権現があったらしい。以下、飯田城ガイドブックより
『飯田城ができる以前は、このあたりには修験者(山伏)の修行所がありましたが、坂西氏はそれまでいた愛宕城の土地と交換して飯田城を築いたので、「山伏丸」と名付けられたのです。絵図をみると、山伏丸の東に熊野権現がまつられていたことがわかります。また、飯田城が三の丸に拡張される以前は、この曲輪が本丸だったという説もあります。』引用終わり
ということは、坂西氏は現飯田城跡のすぐ近くにある愛宕城(現・愛宕神社)に居を構えていたが、山伏と、その修行場所となっていた土地と交換をした。そこに山伏が祭っていたのか、熊野権現があり、そこを山伏丸と呼んでいた。二男が大出に分かれたとき、その熊野権現を分神したということらしい。
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年 1964〜1969年 執筆
古城の城主坂西系の大出氏が亡びたのは南北朝時代のことで、想像するならば、この時の合戦で沢村は殆んどかい滅、四散おびただしい人骨などはこの時の所産であろうか、今は無縁仏の供養碑が立っている。この上の原は蓮台といい、共同墓地となっている。[p60-61]
建武年間 [1334-1336] 、木曽又太郎家村、権兵衛の峠をこえて伊那に侵入、大出殿討死。ここにあった月照山金剛寺は大出氏と松島氏の位牌所であったが、焼きはらわれてのちに松島に移って、今は金剛山明音寺となって存在している。[p61]
大出氏が木曽氏にやられ、沢村から山麓の長田に引退。桑沢川の北を北大出、南長田の辺を南大出と云った。[p61]
大出氏は山麓にひそんでいたが、箕輪氏が安堵すると、里村に降りて来て、中村織部の屋敷に住まっていたという。この大出氏の直系もいつか消えてしまった。勿論、血統のある人たちは存在するにちがいないが。[p61/62]
『箕輪町歴史行脚』小川竜骨より 昭和54年 1979年 出版(原文は詩調)
大出沢村根元を記す文書を繙(ひもと)けば 箕輪領地を守護として初めて赴任して来たる 下伊那飯田地頭(ぢがしら)の坂西淡路の守の孫 兵庫頭(がしら)が功に依り伊那の領地を与へられ 大出に居を構へしが大出城の始めとか [p1]
(里小屋城の)向ひ手前の古城に残る空壕 郷士久保 住ひし武将誰々ぞ 顧る人影もなき [p4]
字 西町屋 中町屋 東町屋に半在家 年六回の市坂や [p2]
熊野神社の趾近き御手洗(みたらし)の池 水清し [p2]
西村小路の東西に 大六天社 金剛寺 盲神堂(めくらがみどう) 弥陀畑 弥陀寺の跡を訪(おとな)へば 古びし石の幾佛
淵の深さは幾ばくぞ 観音堂お釣鐘が底に沈むと伝はれり [p1]