荒神社 所在地:辰野町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
荒神山の南端は見事な常緑の森をなしている。この森の北端にあるのが荒神社をいう。奥津彦、火産爾、奥津比女の三神を祭ると。物の見事な森と社殿である。長久二年 [1041] の勧請というから九百年も前のこと、永禄十二年 [1569] 、この荒神山の前に城をかまえた。樋口光信再建すという。旧暦八月二十八日はこの社の祭典だがこの日には必ず、たとえ三粒でも雨の降らない日はなかったと。
この社掌宅がある。裏からみると全くお寺だ。様子をきくともともとお寺で、仏光山香蓮寺といって高野山の末寺、天徳元年 [957] 、源経基公の開基という。藤原氏のまさに全盛ならんとする頃のことである。元禄五年 [1692] 、荒神社地へ移し、明治元年 [1868] 、神仏分離令が出て、住職は神官となり、檀家六十余戸は神葬となったという。なるほど、この附近の葬式は笛と太鼓でにぎやかな葬式であった。[p12]
神官の樋口氏は和歌と書の大家である。[p12]
荒神山は、新町駅の東に川をへだてて横たわっている丘山で、高さ十—二十丈(約四十米)の低平な丘山だが、山の南側は、見事な林相をなしてその林に埋まるように鎮座されているのが、荒神さまである。これは高天原時代の神様だ。この社務所になっている神官の社務所は変わっている。天徳元年 [957] 六十代村上天皇のころ、源経基の開基といわれ、文安元年 [1444] 足利義政のころ樋口の城主筑前守光安が再建した真言宗の寺を、元禄五年 [1692] に荒神山の社地に移して、仏僧が神官を兼ねていたものを、明治元年 [1868] 、神仏分離令によって、僧侶が畜髪して神官となり、名も樋口中原兼義と改め、檀徒一同も氏子となって神葬となったとある。
うっそうとした美事な森林の中に寺でもない寺がかくされて、仏光山香蓮寺といった。
神仏混淆は、宗教上や、国粋思想の上から、ひどく避難され、軽蔑されて来たが、これは軽蔑される所ではない日本の思想史上重要な点で、もっと真面目に研究されなければならない。旧川島村の熊野社には今でもこの形が残っている。[p15/16]
関連項目:荒神山の戦