上田城・畑ヶ中・館址 所在地:辰野町小野上田・畑ヶ中
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
この北の小野神社の、線路をへだてた東に、上田部落というのがあり、この低い丘を「畑ヶ中」という。北の低い山を城山、ちょっとした展望台である。この城山つづきに堀あとがあるというので、この部落の小野巳代志先生と局長の小野前八さん、部落の人たちの案内でまわってみると、なるほど丘をたち切った堀切りと、土塁のあるのがみえる。出てくる土器は土師(はじ)、須恵器がほとんどで、それ以前のものは出ない。平安時代の館地だというが、諏訪との関係からみて、そうかも知れない。
この丘の東を流れる川を竹入川をいい、西を小野川が流れて、駅の近くで合流している。いわば、半島の上に出来た部落である。城山との関係からみて、戦国時代の頃にもここは、小野の中心勢力のあった所とみる。[p4]
小野の中心古館址
たのめの森は、北に小野神社、南に矢彦神社という二つの社がある。南の矢彦神社の東に雄館という古い館址がある。この”おたて”からは古陶が出たことがある。ここ畑ヶ中の堀をめぐらせた館址には、社掌の今井氏という人がいたそうだ。小野の郷土研究会会長の小野先生によると、平安のころの土器が沢山出るが、それ以前の土器は出ない。それ以前の土器は水便の悪い山の際から出る。この畑ヶ中の住居址から土師、須恵器が沢山出るところをみると、この台地はこの小野の中心地であったと思われる。この台地にははっきりした土塁の形と三本の堀切り(九米—二十七米 深さ三米)、堀切りのはしには貯水池があった。城につきものの稲荷社が残っている。奈良平安のころからの館址であって、やがて戦国時代に入ると、当時の支配者の館址となったのであろう。[p6]
天文年間といえば、甲州の武田が信州方面に勢力を張り出して来た時だが、その前に同じ源氏の系統である小笠原が、信濃の守護となり、下伊那の松尾にいたのが中心地の松本に移り、地の利を得て勢力を張っていた。その小笠原の配下に、草間備前というものがおり、この草間が小野にいた。中々の豪将であった。やがて、小笠原は武田のために追われて姿を消すと、配下の草間備前も武田に属したが、備前もこの辺にいたものと思う。[p5]
小笠原の配下にいた草間備前の本拠はわからないが、恐らくここも一つの拠点であったろうと思われる。この台地の周囲は湿田地帯で、水田の少ない小野地方の稲作の中心地の一つであろう。この館址の東には竹入川が勝弦から流れ出し、合よし川と合流して駅前で小野川に合する。西はうとう峠から南流する小野川をへだてて、たのめの森の小野神社に対している。勝弦峠を諏訪から超えてくると必ずここを通る、要害の地でもあった。[p6]
関連項目:たのめの里/小野神社・矢彦神社/合地の宮・合図の宮/上田城・畑ヶ中/川鳥城/草野の古城/小野の東山道