赤羽記02保科氏 高遠に仕える


保科氏 高遠氏に仕える
※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。


高遠ノ城主 断絶シケリ 地士僉議シ 諏訪之惣領ヲ貰立之
是ハ生付愚カ成故 諏訪ニテ不立 是故貰取也 是頼次ノ先祖也 七代先ト云
頼次ヨリ三代目ノ城主 生付賢ク 武術ニ達シ 伊奈ノ郡ヲ不残切取ル 十萬石程也
其後 遠江ヘ働 遠江ヲモ少々切取
狩野氏ナト順来 今ノ狩野氏カ先祖ナリ
此ヨリ保科氏 城主ヘ仕 北村ト云所 二十石取ラル 保科氏代々之墓所 北村ニアリ



管理人訳:
 高遠の城主が断絶した。地域の武士たちが集まって僉議(せんぎ:集まって評議すること)し、諏訪の惣領を高遠に貰い受け、城主に立てようと決まった。この「諏訪の惣領」は生まれつき思慮の足らない人物であり、諏訪では当主になれなかった。そういう理由で高遠の城主に入ってもらったのである。この人物は頼次の先祖である。7代前の先祖という。

 頼次から3代前の城主は生まれつき賢く、武術に優れ、伊那郡を残らず攻めて領地とした。10万石ほどである。
その後、遠江(現・静岡県西部)に出陣し、遠江も少し領地とした。

 この時「狩野氏」などが高遠氏に従うようになる。今の「狩野氏」の先祖である。この頃から、保科氏が高遠城主に仕えるようになり、「北村」というところに20石の領地を持つ。保科氏の代々の墓は「北村」にある。



管理人考:
 高遠信員(たかとおのぶかず)は1930年近辺の南北朝時代の話だろうか。城主が絶えた・・・というのは木曽系の高遠氏が断絶し、地元の有力豪族たちが諏訪に次の城主をお願いしたということか。諏訪系高遠氏がここから始まる。


諏訪から城主を高遠へ迎えたという部分を他の資料で探す。


武家家伝・高遠氏

”高遠氏の祖信員は諏訪氏の惣領であったが、生来おろかな質であったため高遠の城主にされたのだという。しかし、高遠の地は鎌倉時代には諏訪社の神領であり、南北朝期には南朝方の勢力圏にあり、南朝方の諏訪氏としては防衛の上からも、南方への勢力拡大という上からも高遠を重視していたことは間違いない。そこで、惣領で力量も備える信員をあえて高遠に配したものと考えられる。そして、惣領の身ながら信員は諏訪を出て高遠城主となった。そのため高遠氏の代々には本来なら惣領家であったとの自負があって、戦国時代における諏訪氏と高遠氏の争いの遠因の一つとなったのである”