小笠原と脇坂と将軍の板倉の木下陣屋(江戸1612-1702)

木下陣屋 所在地:箕輪町


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆



古来、箕輪領といえば御子柴より松島までを云ったそうだ。[p39]


小笠原領・二木代官 時代

 慶長六年 [1601] 小笠原秀政飯田に居て、箕輪領も支配していた。初めは、家臣を田中城に派遣していたのを、田中城は不便だし、水害などあって具合が悪く、木ノ下に移って陣屋を置いた。慶長十七年 [1612] のことである。[p39/40]

 空城となった田中城も慶長六年 [1601] 、小笠原秀政が飯田城主のとき、田中城へ家中のものを移し、箕輪領を管理させたが、のち慶長十七年 [1612] に田中城から木ノ下に移り、木ノ下陣屋の始めとなった。[p52]


 飯田にいた小笠原秀政の家臣二木右衛門、四百石の禄をもらい、以下百石の禄のもの三十二人、その他衆小人多数、木ノ下に移し、町屋敷二町四反一畝五間の城地を構え上ノ城といった。小笠原秀政は十八年 [1613] 松本へ移り、一年おいて元和元年 [1615] 、大坂夏の陣にて戦死した。[p40]


脇坂領・加集代官 時代

 慶長六年 [1601] の御改めによると箕輪ノ庄三十六ヶ村一万千三百二十六石三斗四升三合と。元和三年 [1617] 右のうち二十三ヶ村は飯田領につけられ九千八百五十石、ただしこれは籾での計算。木ノ下に陣屋をたて上ノ城と呼んだ。この時、家康はすでになく、二代将軍秀忠の時である。箕輪領はこれより寛文十一年 [1671] 、四代家綱の時まで五十五年間、飯田の脇坂淡路守安元、安吉の領地となっていた。[p39]

 元和三年 [1617] 飯田城主脇坂淡路、箕輪領一万石を支配するため木下陣屋に加集(かしゅう)六兵衛以下十騎、同心など派遣。小笠原の造った、あき屋敷に入れて本格的な経営を始めた。上ノ城の下は豊富な湧水で池をなし、そこへ小県から寺を移し、陣屋の防衛構えとし、その寺の前を区画して町屋敷の地割をし、せまい台地一ぱいに使って陣屋の区画を作った。寺は養泰寺という。[p40]

 飯田の脇坂は伊那の統治五十五、六年、寛文十二年 [1672] 播州辰野(竜野)の所がえとなる。[p40]

 殿町は一段と高い中段に養泰寺の山門から一直線に道を区切って左右にきまりよく屋敷を地割して、丁度列車の座席の様に家がならんでいる。陣屋屋敷がとりはらわれて、二百年にもなるが、そのあとに建てられた家なみも、やはり昔の家のあとに建てられている。一町四面の真四角な土地である。当時は二町四反一畝歩の町屋敷というから、ここを中心に拡がっていたものらしい。この侍屋敷の中央道に寺の山門がみえるが、この寺には名陣屋守加集杢之助の墓がある。寺の其うしろを登ること十四、五米、まわりを土塁と掘でかこんだ上ノ城がある。東西二十五間ー三十間、南北三十五間、東にやや傾斜した城地であり、殆んど原野であったものが今は全く全域が墓地で埋まりそうだ。[p42]

(加集杢之助は)民政に心をつくし特に大泉新田の開発に力をそそぎ、士人 [武士・地位の高い人] その功績をしのび神社に祭り、年々その祭祀を怠らないと。[p42]

 米をめったにみたことのない大泉の人たちに、米のめしを作らせた郡代様である。尤も御年貢で大部分とり上げられてはしまったけれど。[p42/43]


将軍御料所 時代

 脇坂は所替えとなり、あとは御料所となって代官が二、三人交代していた[p41]


板倉領・足立代官 時代

 脇坂は所替えとなり、あとは御料所となって代官が二、三人交代していたが、天和三年 [1683] に又、板倉頼母の知行となり、板倉の家臣足立平左衛門が陣屋守となり、のち名倉などが交代。[p41]


将軍御料所・太田代官 時代

 元禄十二年 [1699] から又御料所となり、代官が何人か交代。[p41]

木ノ下陣屋も、将軍の御料所となったために、元禄十五年 [1720] 松島の西垣外に陣屋を移し、太田隠岐守が松島陣屋を守ることになったと。[p41]


その後暴風雨で崩壊

 陣屋も飯島役所附となり、又塩尻附となったが、元文元年十一月九日 [1736] の夜暴風のため陣屋崩壊。塩尻役所へ再建をうったえたが当分不要とのことにて、屋敷一反七畝は年貢地となり、慶長十七年 [1612] より百二十五年、地頭二十二人を経て遂に引き払いとなった。[p41]




『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より


 慶長17年 [1612] 飯田藩主小笠原氏により木下陣屋が置かれた。このとき町割を行い,町屋敷分は2町4反余であった(箕輪町誌)。

 脇坂氏も存続させ,郡代以下の家臣を常駐させた(箕輪町誌)。

 高滝藩も信濃国内の領地を支配するため木下陣屋を維持したが,元禄12年 [1699] 転封に伴って廃止となった。

 同13年 [1700] の戸数154・人数1,111,天保8年 [1837] の戸数232・人数891(箕輪町誌)。陣屋の廃止が人口減少に結びついていることがうかがえる。



管理人注釈


 高滝藩は木下に陣屋を経営した板倉氏の本拠地である。信濃坂木藩から分与され立藩された。現在の千葉県市原市高滝にあった藩。信濃の箕輪領は遠隔地であるが板倉の知行地だった。