『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
屋名(保科)はもともと飯田の城主であって、一旦は高遠の仁科五郎と共に織田の軍に向かう筈であったが、織田軍に手向かうことの不利をさとって、攻撃軍の織田に内通して火攻めをすすめた。高遠は敢えなく陥落。[p51/52]
新蕗原拾葉/地域の歴史資料をアーカイブ・閲覧ライブラリー by 柴徳昭
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
屋名(保科)はもともと飯田の城主であって、一旦は高遠の仁科五郎と共に織田の軍に向かう筈であったが、織田軍に手向かうことの不利をさとって、攻撃軍の織田に内通して火攻めをすすめた。高遠は敢えなく陥落。[p51/52]