『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
(藤沢)頼親は信長に臣礼を尽して田中城にいたが、六月信長が本能寺にて殺害され、天下は又、争乱の時となったが、頼親は武田の縁故であり、小田原に本拠をもつ関東の大勢力北条氏と結んで、夢よもう一度とたくらんでみた。その時、北条氏は佐久から諏訪に入り、徳川は甲斐から伊那に手をのばしていた。屋名(保科)はもともと飯田の城主であって、一旦は高遠の仁科五郎と共に織田の軍に向かう筈であったが、織田軍に手向かうことの不利をさとって、攻撃軍の織田に内通して火攻めをすすめた。高遠は敢えなく陥落。保科はうまく脱出し、松本あたりでブラブラしていたが、弟の兵を借りて下条氏の守る高遠城を奪取した。保科は徳川方であったために、北条方である箕輪の藤沢氏に徳川方に帰順する様にすすめたが、藤沢氏は応じない。そこで攻撃をしかけて三日間の激戦ののち、遂に奪取してしまった。天正十年 [1582] のことである。[p51/52]
天下の剛勇、箕輪藤沢氏も南北朝以来二百四十年余りで全く消えてしまった。[p52]