曲り淵の館の曲渕庄左ヱ門 所在地:辰野町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
天竜東岸にあった平出の古城に対しての新(あら)城は、この曲り淵の館を言っているものだろう。武田が伊那を征服した時、平出の城主も当然、武田に服した。武田も天正十年、織田によって亡ぼされた。城郭は全部取り払われてしまって、屋敷は他へ移している。「伊那郡記伝」には、天竜川の西南沿岸、横川の落合にて、河身屈曲深淵をなし、よって曲り淵と称す。曲渕氏主家と共に没落し、その跡貢地となると。古城に居た曲渕庄左ヱ門らは、自分の新屋敷を上流の曲渕に求めて、ここに新館を造って住まったものだろう。
横川川が天竜に入る辺を曲り淵と言って、天竜には橋がかかっている。諏訪から有賀峠を越えてくる鎌倉街道の、平出に下りて宮木に分かれる道はこの辺から天竜を西に越えている。今は水田地帯になっているけれど、この辺を柏木と言っている。
管理人考
「伊那の古城」に出て来る「曲渕庄左ヱ門」とは、武田信玄の家臣板垣信方に仕えた曲渕正左衛門吉景のことだろうか。正左衛門は庄左ヱ門に通じるし、また壮左衛門・勝左衛門という表記の文献もあり「しょうざえもん」を色々に書いたのだろう。板垣信方は武田家臣団の筆頭格であり、信玄が諏訪を攻めた直後には上原城に拠点を置いて諏訪郡代を勤めている。それとほぼ同じ時期に板垣の家臣である曲渕が平出の古ル城に拠点を置いて周辺を統治していた可能性はある。
武田信玄が古ル城を攻めたのが荒神山の戦いの時なのか、その時の城主(または城代)は小笠原系の人物だったと思う。その後、空いた古ル城に曲渕が入り守ったということか。武田が荒神山に攻めてきた当時の荒神山や、隣りの羽場城は草間備前が守っていたので、その系統の人物が古ル城にいて、武田に落ちた後は板垣の家臣曲渕が入った。
それから約40年後、天正十年三月(1582)、織田によって伊那谷が占領され、高遠城が落ち、続いて勝頼が死亡し武田が滅びると、曲渕は古ル城を退去し、上流の横川川との合流地点に「館」を建てて住まっていた、というのが「伊那の古城」の説明だ。
その後曲渕庄左ヱ門は武川衆の一員として徳川家康に仕えて家康からもかわいがられたようである。家康から五百石をもらっていたようである。
曲渕庄左ヱ門の、短気で訴訟好きでケチで変わり者な逸話は数多く残っており、主家武田信玄にも、自分への褒美が気に入らないと激怒し褒美の品の脇差しを投げ返すなどしたようである。武田家の家臣というより、板垣信方の家臣というような男である。
この曲渕庄左ヱ門の出自や経歴などを見ると、生まれは現在の山梨県中巨摩郡昭和町押越の押原小学校横の本妙寺の地。この寺は屋敷跡に後に建てられた。この辺の小字が「曲渕」というらしい。辰野に小字として「曲渕」が残っているのか要調査だが、武田の家臣であり、甲州に小字「曲渕」があり、生まれはその地なので、そちらが本来の由来では?という気がする。辰野の曲渕の伝承は曲渕庄左ヱ門が館を建てて住まっていたことに由来するものではないか。
曲渕庄左ヱ門の子孫はその後、徳川に仕え続け、大阪西町奉行や江戸北町奉行などを勤める曲淵景漸が出る。天明の大飢饉の打ち壊しのきっかけを作った人物。口の悪さで打ち壊しを誘発してしまったところなど、曲渕庄左ヱ門に通じるものがあるのか。しかし庶民からの人気はあったようである。その後勧請奉行など勤める。
戦国武将録より
曲淵吉景【まがりぶちよしかげ(1518~1594)】 板垣家臣団(板垣衆)。通称庄左衛門。板垣信方に見出され、草履取りから出世して板垣隊の足軽大将にまでになった。1543年「小田井城の戦い」で広瀬景房と武功を競い合った剛の者。それよりも奇行の人物として有名。板垣信方の死後、跡をついた子の板垣信憲が本郷八郎左衛門に慮外をして斬られたことを武田晴信の差し金を思いこみ命を狙ったが、誤解であると知り、信玄もその忠誠心を誉めた。生来の訴訟癖で、生涯七十五度の訴訟をして勝ったことが一回、和解が一回で他は全て負けた。奉行衆との仲は極めて悪く、他にも大変なケチであった。1575年「長篠の戦い」にも参陣した。武田家滅亡は松平元康に仕えた。
関連項目:平出の古ル城