『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆 [1964〜1969]
(上の平城址の)右を流れる川を田無川又は一の沢川という。
さかのぼると長岡新田、峠をこえると三里位 [11.78 km] にして、藤沢谷の片倉に出られる。御堂垣外から松倉を通ってを通って、金沢峠を降ると青柳駅に出られる。
長岡新田から北の真志野峠を越えると、諏訪の湖南に出るし、片倉から杖突を越えると、神宮寺から茅野に出られる。
今は辺鄙となったとみられる小河内も昔の人がみたら、結構便利な所であったにちがいない。[p65]
千年近くも昔のこと、この地は信濃源氏、又は伊那源氏の発祥の地であった。この地に根をおろした源氏がやがて、南信から中、北信にかけての豪族の先祖となって発展した。[p65/66]
『管理人考』
上の平城が築城されたあたりの時代背景をザックリ「伊那の古城」から抜粋する。
時代は平安時代。地方は混乱と争乱の連続
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武力を持った者・集団を平定に向わせる=武士の始まり
その頃の信濃は平穏。関東・東北は治安が悪かった
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初めは平氏がこの治安にあたる
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平将門の反乱や同族同士の争乱が絶えない
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朝廷は源頼信(よりのぶ)を甲斐の守に任じて平定させる
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東北のエゾ人たちはまだ従わない
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源義家(よしいえ)を応援したのが、源経基(つねもと)の五男、源満快(みつよし)の孫、甲斐守源為満(ためみつ)の子、源為公(ためとも)。
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源為公(ためとも)が後三年の役の功で信濃に領土を賜り、伊那の小河内に居館を構えた。
下記の様に為公は経基の4代あと。
源経基----源満快----源満国----源為満----源為公(上の平城主)