『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶 貞享3年 [1686]
「小平物語」より ※読みやすい様に管理人が箇条書き・()などを加えています。
第四 信州上伊那 福与城攻めの事
天文十三辰 [1544] の歳、上伊那の福与城に箕輪頼親(=藤沢頼親)在城なり、同所より一里半 [5.9キロ] 程 隔(はな)れ、下諏訪境、平出という処まで 荒神山に砦を構え、小笠原長時より草間肥前に、上伊那衆 少々籠り置き給うなり。
武田晴信公 仰らるゝは、伊那 長時持分へ出馬致すべきあいだ、諏訪の者共、案内のため 一の先を仕るべしとて、
・尾輪・高木・青柳・高梨・三沢・両角・小野沢・外記・小平・小沢・茅野・矢嶋
このほか 大勢 武田典厩 組同心に仰せ付けられ、諏訪・伊那の境、有賀峠通りを二時(ふたとき)[4時間] ばかりに打ち越し、平出・赤羽に着。
その日の未刻 [14:00ころ] より 荒神山の取手を取り巻き、三時ばかり [6時間くらい] に攻め破るなり。
雑兵百二十余、武田方へ首を討取なり、味方も大勢 手負い・死人 これ有り。
長時公より差し置かれ候 士(さむらい)大将草間、今は叶わしと 天竜川を漸く(ようやく)越し渡り、七八町 [764m-873m] 川向うの羽場・北大出へ引き取りなり。
すなわち晴信公は下諏訪に座す、典厩公、この段を晴信へ注進せらる。
殊のほか悦喜にて、仰せらるるは、
「内々、われら聞き及びしは、諏訪の者共と上伊那衆は親類縁者多くあるよしは、全く内通して二心あるべし、とおもい、目付を懸けておく所に、一切その模様なし。諏訪衆、わが父 信虎の代にも、わが代にも、頼重・小笠原長時に先手を致す時は、韮崎合戦を始め、たびたびわれらが先衆を追い崩し、突き敗る故に、様々策を廻し、諏訪を引き倒すなり。敵方の時は分別をもって何とぞ致したくおもいしに、今、われら下にて、かかる如くの働き、神妙に候。」
伊那を大概、踏み散らし、耕作を振り、帰陣候は、旧領の御朱印・御感状下されのよしにて、原隼人左をもって、仰せられ下すなり。
その後、百・二百貫、あるいは五百貫、千貫の御朱印・御感状を典厩をもって、これを下さるるなり。
某父、小平円帰入道の代に、諏訪南大塩の内、今の諏訪因幡守殿、御内、小平佐五右衛門 居屋敷(主人の常に居住する屋敷)。
山浦道三屋敷において、七拾壹年以前、弘治ニ丙辰年 十二月 [1556/12月] 出火にて、代々の財産・先祖の武功の書物、大分焼けるなり。
また、天正十年 [1582] 織田信長公、甲州へ御馬入れたる一乱に焼失せしむるものなり。
さて、武田より板垣信形を塩尻嶺の押えに差しおかれ、箕輪・福与の城攻める為に、上伊那荒神山の砦に御陣取りなされ、先手は三日町上棚といふ所に陣取りなり、
諏訪甲州人数 五百余騎ばかり、雑兵共に三千五百の人数にて、福与の城を取り巻き攻めるなり、城に籠る武士には
・松島
・大出(藤沢織部のことか?)
・長岡
・小河内
・福島
・木下、
是は大身の士(さむらい)なり、
このほか、
・野口
・手良
・八手
・平出
・高木
・辰野
・宮木
・神戸
・赤羽
・樋口
・有賀
・漆戸
・柴
の者ども、都合百余騎、雑兵千五百 籠城なり。
箕輪殿の中にも 藤沢織部(藤沢一門で大出城に居城?)・大泉上総とて 強弓の射手あり、城の大手にこの者どもの箭(や)先に中(あた)り、寄手、大勢 手負い・死人これあるなり、
この由、長時公 聞こし召し、深篠(深志)城を打ち立ち給い、小野、小横川通り 天竜川の南の方、宮木の間、竜ヶ崎といふ処 御陣を成され、先衆は北大出・羽場に陣取るなり。福与城の後詰なり。惣軍勢一万五千の着到なり。
ただし木曽義康の人数 共にかくのごとくなり。
さてまた、小笠原 舎弟 小笠原信定、下伊那衆を将(い)て、鋳鍋(伊那部)に本陣を取り、右後詰として長時公(兄)の一左右(いっそう=一報)、あい待たれ候なり。この旗本には
下条・赤須・宮田・片桐・飯島・知久・座光寺・保科弾正・溝口・平瀬・大島、
このほか小身衆、合わせて三千余人の人数なり。
さるほどに、小笠原長時公の御陣場、竜崎山と 武田晴信公の御陣場、荒神山との間に、天竜川を隔て、漸(ようや)く 二十丁(=町)[2,182m] これあるなり、故に両陣の旗指物・馬印、駒嶽の下嵐に吹き靡(なび)かせ、竜田・吉野の花紅葉(はなもみじ)も ただかくやらんと、敵・身方(味方)の貴賤、目を驚かし、近辺の百姓等 肝を潰して周章(しゅうしょう)(=うろたえること)し、西東の山奥へ逃げ入る事 限りなし。
しかるところに、晴信公 思召には、小笠原長時旗本にて、下諏訪通りの道を遮(さえぎり)て、平出より懸(かけ)来たらば、味方勝利有りとも、他国と云い、有賀峠通りも 下諏訪通りも難所なり。しからば、味方危うき事有るべし。その上、福与城、手強く責め詰める故、城主より人質を出し、無事を作り候事 幸いなれ。
福与の城、攻め手人数、早々引き上げよ、と仰せ遣わされ、夜のうちに下諏訪まで人数を引き取りたまうなり。その時、長時公の御錠は、今日是非とも晴信を前後より取り包み、有無の一戦とおもう所に、かかる如く仕合、是非に及ばずとて、各諸軍を引き上げ、松本へ御帰陣なり。
この年中 [1544] 、小平出雲どの、四拾才にて剃髪して、諱を道三と改め、同年 [1544] 道三も幼少なる息女を甲州へ人質に進するよし。
具に(つぶさに)道三申し伝えるなり。
注:按に(考えるに)頼親、この時、城を開きて羽広邨(=羽広村)に住す。今その地を「殿の小屋場」という。
注:「二木寿斉記」に曰く。伊那衆、この引き取り申すに付、箕輪殿、城、無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質に出し、箕輪殿、牢人(=浪人)なり。それについて、長時公も、林へ御引き取りなさるるなり。
管理人訳:
04.「福与城攻め」
1544年・天文13年、上伊那の福与城には「箕輪頼親」=「藤沢頼親」が在城していた。この福与城から一里半(5.9キロ)程離れたところ、下諏訪との境の「平出」という所までを領していた。
※当時、岡谷は下諏訪のエリアに含まれていて、箕輪と下諏訪は接していた、と考えていいのだろうか。
「小笠原長時」は荒神山に砦を構え、「草間肥前」に少人数の上伊那衆を配し、守らせていた。
武田晴信は「伊那方面や小笠原長時の領内へ出馬する時は、諏訪の者どもを案内のため先陣を勤めよ」と言った。
そこで・尾輪・高木・青柳・高梨・三沢・両角・小野沢・外記・小平・小沢・茅野・矢嶋・このほか大勢を「武田典厩」 に配属させて、有賀峠を4時間ばかりで越え「平出」「赤羽」に到着した。その日の未刻(14:00ころ)から荒神山の砦を取り巻き、6時間くらいで攻め破った。雑兵120余りの首が武田方に討ち取られた。武田側も大勢が傷を負い、討ち死にした。
「小笠原長時」が荒神山に布陣させていた大将の「草間肥前」は、今は戦うのは不利であると判断し、天竜川をなんとか渡り、7〜8町(764m-873m) 川向うの「羽場」「北大出」へ引いた。
「武田典厩」は、この事を下諏訪にいた「武田晴信」に報告した。「武田晴信」は大変喜んで、こう言った。「うちうちに聞いていた所では、諏訪の者どもと上伊那衆は親類縁者が多く、内通していて二心あるだろう、と思い、見張らせて様子を伺っていたが、武田を裏切る様子は全くない。諏訪衆は、父「信虎」の代にも、自分の代にも、「諏訪頼重」「小笠原長時」の先陣を勤める時は、「韮崎合戦」をはじめ、たびたび、われらの先陣を討ち崩し、突き敗るので、様々に策を考えこれに対応してきた。諏訪衆が武田の敵の時は、なんとかしたいと思っていたが、今、武田の配下となって、このような良い働きは実に神妙である」
伊那を適度に踏み散らし、田畑を荒らして帰陣した後に「武田晴信」は「原隼人左」を介して、旧領の「御朱印」と「感状」を下した。その後、「武田典厩」を介して、100貫・200貫、または500貫・1,000貫の「御朱印」「感状」下された。
私の父「小平円帰入道」の代に「諏訪南大塩」の、1680年現在の「諏訪因幡守殿」の領地内の小平佐五右衛門の屋敷の場所に居住していた。それより71年より前の弘治2年12月・1556年12月、山浦道三屋敷が出火して、代々の財産・先祖の武功の書物が大分焼けてしまった。また、天正10年 ・1582年に織田信長が甲州を攻めた時、焼けてしまった。
武田晴信は「板垣信形」を塩尻嶺の押えに置いて、自身は「箕輪」「福与」の城を攻めるために、上伊那の「荒神山の砦」に陣を置いた。先手は「三日町上棚」という所に陣を取った。
諏訪と甲州の軍の人数は500余騎くらい。雑兵は共に3,500の人数で「福与の城」を取り巻き攻めた。
福与城に籠る武士は、
・松島
・大出(藤沢織部のことか?)
・長岡
・小河内
・福島
・木下
以上は大身の侍である。
この他に、
・野口
・手良
・八手
・平出
・高木
・辰野
・宮木
・神戸
・赤羽
・樋口
・有賀
・漆戸
・柴
の者ども、合わせて100余騎、雑兵1,500が籠城した。
箕輪殿(藤沢頼親)の軍にも「藤沢織部」(藤沢一門で大出城に居城?)「大泉上総」という強い弓の射手がいて、城の大手では、この者どもの矢にあたり、寄手の大勢が傷を負い死んだ。
「小笠原長時」はこの状態を聞いて、深志城から出陣し、小野・小横川を通り、天竜川の南の方、宮木との間の「竜ヶ崎」といい所に陣を置いた。先衆は「北大出」「羽場」に陣取った。これが福与城の後詰である。軍勢15,000の到着である。木曽義康の軍勢も同じ様なものであった。
更に、「小笠原長時」の弟である「小笠原信定」は、下伊那衆を率いて「伊那部」に本陣を取った。右後詰として「小笠原長時」の指示を待っていた。「小笠原信定」の旗本には、
・下条
・赤須
・宮田
・片桐
・飯島
・知久
・座光寺
・保科弾正
・溝口
・平瀬
・大島、
このほか小身衆、合わせて3,000余人の人数なり。
「小笠原長時」の陣場「竜崎山」と、武田晴信の陣場「荒神山」との間は、天竜川を隔て、20町(2,182m)程あった。両陣の旗指物・馬印はお駒ケ岳の風に吹きなびいていた。竜田・吉野の花紅葉(はなもみじ)もまさにこのようなものだろうと、敵・味方、身分の区別なく、全員が目を驚かせた。近辺の百姓などは肝を潰してうろたえ、多くの者が西東の山奥へ逃げ入った。
そのような状態で武田晴信はこの様に思った。「小笠原長時」の陣がある「下諏訪通り」の道を遮って、平出より攻めれば、味方の勝利もあるだろう。しかし、ここは他国であるし、「有賀峠通り」も「下諏訪通り」も難所である。味方が危なくなる事もあるだろう。その上、福与城は手強く、攻めあぐねている。ここは福与城城主から人質を出させて和睦する事が最良である。
福与城の攻め手の軍へ、すぐに引き上げよ、と命令し、夜のうちに下諏訪まで引き下がった。その時、「小笠原長時」は、今回、是非とも晴信を前後から取り囲み、決戦をしようと思っていたが、武田晴信と藤沢頼親が和睦したので、仕方なく各軍を引き上げ、松本へ帰陣した。
この年(1544年)、小平出雲は40才で剃髪し、諱を「道三」と改め、同年(1544年)道三も幼い娘を甲州へ人質に出した。道三が詳しく語った。
注:考えるに、藤沢頼親はこの時、福与城を開城して羽広村に移った。今その地を「殿の小屋場」という。
注:「二木寿斉記」に記載されている所によると、武田晴信の下諏訪への引き取りの時、箕輪殿(藤沢頼親)は、福与城が落ちずに済み、弟の「権次郎」を武田晴信へ人質に出した。箕輪殿(藤沢頼親)は浪人となった。この様な状況になったので「小笠原長時」は林城へ帰陣した。