『上伊那郡高遠町兜城公園風景』 明治32年 [1989]
※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。
高遠城沿革
織田氏ノ将 毛利河内守秀頼 飯田ヨリ抱ヘ持ス
同年 [1582] 六月 織田氏 明智光秀ノ為ニ殺セラレ 毛利氏 上国ヘ走ル
同年 [1582] 七月 保科越前守正直 拠之 徳川氏ニ従フ
天正十八年 [1590] 徳川家康エ随順シテ関東ヘ移る(下総多古)
此跡 秀吉ノ命ニ依 當郡飯田ノ城主 毛利河内守秀頼 其跡 京極修理太夫 源高知 伊那侍従トナル
毛利ノ時ヨリ城代トシテ 岩崎左門守之 又 徳川家康ノ命ニ依リ 慶長六年 [1601] ヨリ再度 保科弾正忠 源正直 領之
管理人訳:
高遠城沿革
織田氏の将である「毛利河内守秀頼」が飯田より高遠へ入った。
1582・天正10年 6月、織田氏は明智光秀に殺害された。毛利氏は本国へ急ぎ戻った。
これにより、同年の1582・天正10年 7月、「保科越前守正直」は徳川に従うようになる。
1590年・天正18年、「保科越前守正直」は徳川家康に従って、関東の下総(現・千葉県や茨城県など)の多古ヘ移った。
この後に、秀吉の命により「毛利河内守秀頼」が飯田城主となった。
その後、「京極修理太夫源高知・伊那侍従」に替わった。(羽柴伊那侍従=京極高知)
「毛利河内守秀頼」の時代から、高遠城代として「岩崎左門守」が入った。
また徳川家康の命によって、1601年・慶長6年から再び「保科弾正忠 源正直」が領した。