恒川官衙遺跡・伊那郡衙 所在地:飯田市元善光寺
『飯田市美術博物館/飯田市上郷考古学博物館パンフレット』より
645年「大化の改新」以降、中央政府は中国の唐の制度を手本に中央集権国家の建設を目指しました。まず、法律により国を治めるため、「律」・「令」を導入しました。律は行政法に相当し、当時の政治経済・社会制度を規定し、701年に大宝律令が制定され律令制度がほぼ完成しました。
中央には国家運営の中心として都城(藤原京・平城京など)を整備し、統治組織として二官・八省・一台・五衛府を設置しました。国土を五畿(機内、現在の首都圏)七道(地方)の行政区分に分け、その下に国(道府県)・郡(県地方事務所や広域連合の管轄地域の単位)・里(市町村、後に郷に改称)を置き国には国府(国衙)を、郡には郡衙(郡家ぐうけ)という役所を設けました。信濃国は十郡、伊那郡は四郷(流布本では五郷)に分けられていました。伊那郡衙が置かれた現在の長野県飯田市座光寺地区は、東山道に属し、信濃国伊那郡麻績(おみ)郷と呼ばれました。
また、中央と地方を緊密に結びつけるため、七道の官道を整備しました。都から放射状に伸びており、地形を無視した直線道路で一定規格(12・9・6m)の道であったと言われています。官道には駅制がしかれ、30里(約16km)ごとに駅家が置が設置されました。
人々は政府により戸籍に登録され、一定量の田が与えられましたが、その代償として租・庸・調・雑徭といった税を負担しなければなりませんでした。租は現在の県税として、収穫の3%程度の稲を郡衙に収めました。庸は布、調は地方の特産物で、両方とも国税でしたので、都まで納税者自らが運ばなければなりませんでした。雑徭は国司の命による労役で、他にも防人や衛士といった兵役もありました。
銭貨の鋳造も唐に習い行われました。最古の流通貨幣は天武天皇の683年に作られた富本銭とされ、以降958年の乾元大寶まで鋳造され、和同開珎から乾元大寶までを皇朝十二銭と呼びます。
律令制度の成立期〜発展期である7C後半〜8Cは、鎮護国家の思想から、仏教が国家から手厚く保護されていたため、生活や文化などに大きく影響を与えました。都には多くの寺院が、全国には国分寺・国分尼寺が詔により新設されました。また、都では遣唐使による唐の影響を強く受けた国際色豊かな文化でもありました。
郡には里(郷)の数により等級があり、伊那郡衙は下郡でした。等級別に職員数が決まっており、下郡には郡司が3人(四等官の大領「だいりょう」1・少領「しょうりょう」1・主帳「しゅちょう」1)勤務していました。郡司は地元の豪族が任用され、終身制でした(国の役人の国司は任期制)。他にも業務を担当する郡雑任も勤務していました。税長・調長といった税関係や厨長・駆使(厨家で勤務するシェフなど)、炭焼丁・松採丁などの役もありました。郡雑任も等級により人数が決められており、伊那郡衙は郡司を含め総数80数名の職員だったようです。
郡衙(郡司)の役割としては、徴税と税物輸京、文書作成、国衙での業務報告(告朔「こくさく」)、郡内の巡検、裁判、公的旅行者への接待、祭祀施行などがありました。他には本来国司の職責とされてた政府の牧(馬の飼育・繁殖・調教など行う所)の管理を、金刺舎人八麻呂「かなさしとねりはちまろ」という伊那郡大領が兼任が兼任していた事がある点や、東国で最も都に近い郡衙であったという立地から、通常の郡衙とは違った業務を担っていた可能性があります。
『毎日新聞 2013/11/16 地方版』より
飯田市座光寺地区にある恒川(ごんが)遺跡群(34ヘクタール)のうち、奈良・平安時代の伊那郡衙(ぐんが)(役所)の遺構とみられる部分(3・8ヘクタール)が「恒川官衙(かんが)遺跡」として国の史跡に指定される。国の文化審議会が15日、文部科学相に指定を答申した。指定部分には倉庫(正倉)群の掘っ立て柱建物跡や祭祀(さいし)用の湧水(ゆうすい)「恒川(ごんがわ)清水(しみず)」などがある。また、松本城(松本市)の南外堀西側と西外堀の一部の追加指定も併せて答申された。
伊那郡衙は当時の信濃国10郡のうち最南部の伊那郡を治めていた古代役所。飯田市教委は今回の指定について、律令体制下の地方支配や正倉院などの実態を示す伊那郡衙全体の歴史的価値が認められたと受け止めている。
恒川遺跡群は縄文時代から中世にかけての複合遺跡で、奈良から平安時代にかけての官衙や前後の時代の集落の遺構がほぼ全域に広がっている。1977年の国道153号座光寺バイパスの建設に伴う調査を皮切りに74次にわたる調査が続けられてきた。
これまでに正倉院や役所の給食施設だった厨家(くりや)、国司、郡司の宿泊施設だった館(たち)などの建物遺構が確認されている。鋳造期間が1年だった貨幣「和同開珎銀銭(わどうかいちんぎんせん)」なども出土しており、古代国家の支配が及んだ範囲を示している。恒川清水の周辺からは奈良時代の人形(ひとがた)など木製祭祀具も出土しており、律令祭祀の場所だったと推定されている。
市教委は今後、遺跡の保存管理計画を策定するとともに、郡衙の中心部分である未発見の郡庁跡などを特定し、指定範囲の拡大も目指す。さらに史跡公園の整備を進め、周辺の古墳群や元善光寺などを合わせて歴史文化ゾーンとして活用を図る。
リニア中央新幹線のルート決定では、市や県がJR東海に恒川遺跡群の回避を要望。JR側も市などの意向に配慮し、遺跡群を迂回(うかい)するルートを公表した。
恒川官衙遺跡は県内33番目の国指定史跡。官衙関連では初指定となる。【横井信洋】