『箕輪記』宮下粛 天和4年 [1684]
※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。
木曽義仲が大田切城の菅友則を攻める
「藤沢氏来由」
箕輪の地は藤澤氏世々傳領せり
藤澤氏は福與の城にあり 其始祖は詳ならず
治承四年 [1180] 木曽義仲 木曽に勃興して 當国の源氏を催促す
爰に伊那郡大田切城主 菅冠者友則 平家の方人なれは是を誅伐せんと九月七日 駒ヶ嶽の巖石を蔦かつらに取付險岨を凌で宮田にこそ出られける
今其の所を木曽殿越といふ 宮田の西にあり 當城輿地の嶺開けす 且大田切の城は今上穂羽場の南に古城と唱ふる地なりと云々 義仲その不意を討んと險岨を出られたる也
藤澤氏を始としてしたかひ靡(なび)かさるは無りしなり され共 菅氏はその要害をたのみけるにや孤立の勢をなして屈せす 数度戦におよひける
管理人訳:
箕輪の地は藤澤氏が代々治めてきた。
藤澤氏は福与城を拠点としていた。その始まりは定かではない。
治承4年(1180年)、木曽義仲が木曽で勢いをつけ、信濃の源氏を催促した。
ここに伊那郡の大田切城主「菅冠者友則」が平家側の人であるので(方人=かたうど・かたひと=味方)、これを滅ぼそうと、9月7日に駒ヶ岳の厳しい岩を蔦葛(つたかつら=つる植物)にしがみつき、険しさ(険阻=けんそ=地形が険しいさま)を切り抜けて宮田に出た。
今、その場所を「木曽殿越」と言う。宮田の西にあった。与地の峠はまだ開けておらず、さらに、大田切城は今「上穂羽場」の南の「古城」という場所にあったと言われる。木曽義仲はその不意をつこうと、駒ケ岳を超えて攻めて来た。
藤澤氏をはじめとして、皆、木曽義仲に従わないものはなかった。しかし菅氏は、その要害を頼って孤立の状態となり屈しなかった。何度か戦があった。
又 高井郡に笠原平吾頼直といふ者あり
晴清忠義傳 高遠記 等に笠原平吾頼直は高遠の人にて 高遠の城をはしめて築けるよし見えたり これ笠原の地名あるによって忠義傳はしめあやまつて 高遠記其あやまりをつがれしなり 大塔記に笠原中務見ゆ 諸士傳考記に頼直の子孫の由 その系図をのす 覚束(おぼつか)なし 中務は笠原にも住せしゆへ 笠原とは名のりしなり 頼直の子孫にはあるへからす
管理人訳:
また高井郡(現・須坂市・長野市・中野市・飯山市など)に「笠原平吾頼直」という者がいた。
「晴清忠義傳」「高遠記」などに「笠原平吾頼直」は高遠の人であり、高遠の城を初めて気づいた、という記載があるが、これは「笠原」の地名が存在することにより「晴清忠義傳」がまず誤った記述をしたものを「高遠記」が引き継いだものである。「大塔記」に笠原中務の名が見える。「諸士傳考記」には頼直の子孫の記述と、その系図を載せているが確かなものかははっきりわからない。「中務」は笠原に住んでいたので「笠原」と名乗ったのである。「頼直」の子孫ではないだろう。