大石城(鎌倉)1293-

大石城 所在地:辰野町


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 義仲が旗を挙げたが、兼光は、弟今井兼平と共に四天王の一人といわれた猛将で、北陸の平家討伐に大功をあらわした。義仲は破竹の勢をもって京都に侵入し、平家を追って一度は天下をとったが、治安や人心の懐柔に失敗し粟津ヶ原で戦死してしまった。その時、弟今井兼平も討死してしまった。兄の樋口兼光は捕らえられて京都で誅せられたが、六歳の遺児は助けられ、樋口左近兼重の名を与えられ、建久八年、鎌倉の頼朝に召され、旧領(平出の地)を安堵された。その子、長門守兼朝、光久を経て、大学頭光頼に至り、矢沢に移り大石城を築いた。これは応仁元年(一二九三)北条貞時の時であるという。[p16/17]

 その城に九代住まっていた、豊前守光忠、長門守光時、大和守光平、和泉守光家、筑前守光安、光忠、孫、光信の時に、大石城を引き払って、東方沢底(さそこ)の日向村に変わり住まっていた。その子、将監(しょうげん)光守は伊那十三騎の一人として、高遠の保科正直に仕え騎馬大将であったが、その子左近光教は、七郎右ヱ門と称し、保科正之高遠三万石から山形二十万石に移封の際、これについて山形に移った。保科正之は三代将軍家光の弟にあたる故、姓も松平と改め、のち会津二十三万石の大々名となった。(「荒神山社殿記」)[p17]


大石城

 旧朝日村の東部の山水を一つに集めて西に流れ出してくる川、沢底川。今は荒神山の丘の北を流れて天竜に入っているが、以前は赤羽の南を流れて荒神山の東から天竜に流れていた。当時の流れの状態は、国鉄羽場駅の辺から東北をみるとよくわかる。

 大石城はこの川(矢沢)を隔て荒神山と対立していた。社殿記の中に、荒神山と大石城との間は船でわたったとあるそうだが、天竜川がここを流れていたのではなくて、沢底川の氾濫の時のことを言ったものだ。工事をした時に大石は勿論、大木が埋れ木となって何本も出て来たとは赤羽の古老の話であった。天竜がここを流れていたとすれば、万年を数える前の事であろう。大石城の名もこの川の石をさして言ったものだろうとは、やはり古老の話であった。ここ樋口の魅力は川岸の平出と共に、木曽側は、穀倉として確保する必要があった。[p17]

 

 鎌倉も元寇の事件で世相騒然として来た時に、荒神山の山城(さんじょう)と共に大石城を造ってこの地の固めとしたものであろう。それが約二百年位つづいたようだが、南北朝の終りのころ民間に降って朝日村の東方沢底川のほとりの日向(ひなた)に隠棲し、郷士となり高遠に属していたという。[p18]  


 荒神山は、観光や施設に掘りまくられてきたが、大石城址は静かな水田となって、天竜から吹きあげてくる風のままに、稲穂はゆらりとゆれ動いている。[p19]


 町村誌の記録による樋口長門守光久、己が城館の大道より卑下なるを以て大石城を築いて移るとある。樋前城は大道より下にあるともとれるし、又、大道に対してみすぼたしいともとれる。[p19]


 天文十六年、大石城主筑前守光信の時に、武田の臣、秋山伯耆馬場民部に攻められ降参し、十八年に城をこわすとある。前記の荒神社殿記とはちがうが、武田の伊那侵略の時この辺で戦があったから、大石城も城砦として利用されたと考えられる。

 城址は東西六十間、南北五十間と記されているが、堀内は四十五間に四十間位、南と北み郭があったらしく全部水田となり、西端は崖となり七、八米から十米位下に矢沢が流れ、二十間の川堀の西か荒神山となっている。一本残る堀は大部埋められて、南端に数間残っているだけである。[p19]


 荒神山との間を船で渡ったといわれる堀川も、今は一尺にも満たない流れとなっているが、この川の上流にはまだかなりの水量があり、土地の人は”東天竜”と俗に言っているとのことであった。[p19]




関連項目:樋前の城址沢底日向の館址