「荒神山/松島/福与①の合戦 」(戦国)1544




『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年 [1964-1969] 執筆

武田伊那侵略の拠点

 荒神山は辰野の天竜川左岸、もとの朝日村にある。電車が新町駅にとまる。窓をとおして東をみると、川をへだてて見える小高い丘のような山である。

 武田信玄の伊那谷侵略の第一歩の拠点となったこの山での戦いは、その点で意味の深い戦いであった。武田が信州に侵入するにはまず諏訪を手中にに入れる必要があったが、当時の諏訪氏は地の利と、剛勇な頼重らの頑強な抵抗で容易に侵入することが出来ないので、まず結婚政策によって晴信(信玄)の妹を頼重に嫁がせ、それをいざないさそって甲州につれて来て詰め腹切らせた。主将を失った諏訪はあえなく甲州勢に降伏、諏訪湖に流れ込む宮川を境として北を甲州、南を高遠領として一応は分割した。戦えば全く腰の弱い高遠だが、野心は先祖の地諏訪を掌中に入れて諏訪の大祝の総領とならん野心を捨てなかったので、甲州が一応守兵だけ残して手を引いた機械をみて、松島の満清と共謀、杖突をこえて安国寺に下り、茅野の左よりにある上原城を攻めた。

高遠連合軍が惨敗

 甲州の守兵を追っぱらい、勢をかって下諏訪の金刺氏を降し、箕輪城の藤沢氏、春近の諸衆を語らって一挙に甲州勢を信州から追っぱらおうと、一応は成功したかの如くにみえたが、信玄の野望は信越を平定し西上、天下一統を企てていたものだからこれを知った信玄大いに怒り、風林火山の標語そのまま大軍を乗り入れた。一応は宮川べりで抵抗したものの高遠連合軍も一たまりもなく敗走、杖突の坂を追いまくられて惨敗。目もあてられぬ状態であった。その時の死者七、八百、頼継の弟、松島満清の二子も戦死、高遠も影が全くうすくなってしまった。時は天文十一年九月 [1542] のことであった。

かくして、諏訪を完全に手に入れた武田はまず伊那を手に入れて、松本の小笠原を征服することによって信州を統一する必要があった。

福与城の攻略

 天文十三年十月 [1544] 、「小平物語」という古書によって荒神山の戦をうかがってみる。

 天文十三年十月 [1544] 、伊那侵略のまず第一歩は箕輪の福与城の攻略にあり、高遠は前年の戦をみても戦力は知れたもの。まず福与攻撃があるのを知った松本の小笠原長時、草間備前に命じて、荒神山の死守を命じた。小笠原は武田と同じ源氏の出であるが早く信濃の守護となり、のち伊那から信州一円を領有していた。晴信は諏訪にいて、武田典厩を連合軍監として諏訪の尾羽、高梨、高木・・・・・などを結集し、諏訪湖の湖南から有賀峠を二時間許りして超え、平出から天竜東を赤羽に出、その日の未の刻午後二時ごろより荒神山を殆ど取りまき、攻め立てた。

大将あっけなく逃亡

 荒神山は天険らしい所はなく、東赤羽部落から容易に登れるし、中間の鞍部は南北の通路となっている。ただ西端は天竜川にさえぎられて寄りつき難くなっているだけだ。日の暮れる頃は大勢すっかりきまって、大将草間備前は砦をすてて天竜をこえて西の方、羽場城へ逃げてしまった。戦闘三時間ばかり、武田方に打ちとられた首、雑兵百二十余り。この大勝の報告をうけた晴信、諏訪にいて大いに喜び、典厩に、尚この上伊那を踏み散らさば旧領朱印感状を下すべしと原隼人に仰せられた。福与城攻撃の前哨戦は大勝した。武田軍は松島辺まで攻め焼き払ったりしたが、その年の十一月には引き上げた。[p9]


 この社殿(荒神社)の北の高所が、陣場である。四面一望、さえぎるものはない。[p12]


 天文十一年 [1542] 七月には信玄のために諏訪氏は亡ぼされ、十三年 [1544] の秋には、諏訪から有賀峠をこえて来た武田軍は、荒神山の草間備前(小笠原長時の部下)を打ちやぶった。草間備前は長時の部下の豪将といわれたが、羽場城の方に逃げてあとは分からない。甲州軍は深追いをしなかった。それは、辰野の宮所の竜ヶ崎城は小笠原の将士が守っていて、深追いすると後を遮断されるおそれがあったので、羽場や、松島辺の民家を焼いたりした位で引き上げてしまった。[p46]





『高白斎記』天文13年 [1544]

「辰野町資料 第113号 三浦孝美」より


同(天文十三年 [1544] 十月)

二十八日 [1544.10/28] 甲午 、在賀(有賀)へ酉刻 [18:00ころ] 御着陣。

二十九日 [1544.10/29] 御先衆、荒神山に陣取る。


十一月朔日 丙申  [1544.11/1] 、御使者として荒神山へ打ち寄せ、働の場近辺に放火す。






『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶  貞享3年 [1686]

「小平物語」「辰野町資料 第113号 三浦孝美」より

※読みやすい様に管理人が箇条書き・()などを加えています。

  

第四 信州上伊那福与城攻之事


 天文十三辰 [1544] の歳、上伊那の福与城に箕輪頼親(=藤沢頼親)在城なり、同所より一里半 [5.9キロ] 程 隔(はな)れ、下諏訪境、平出という処まで 荒神山に砦を構え、小笠原長時より草間肥前に、上伊那衆 少々籠り置き給うなり。


武田晴信公 仰らるゝは、伊那 長時持分へ出馬致すべきあいだ、諏訪の者共、案内のため 一の先を仕るべしとて、

・尾輪・高木・青柳・高梨・三沢・両角・小野沢・外記小平・小沢・茅野・矢嶋


このほか 大勢 武田典厩 組同心に仰せ付けられ、諏訪・伊那の境、有賀峠通りを二時(ふたとき)[4時間] ばかりに打ち越し、平出・赤羽に着。

その日の未刻 [14:00ころ] より 荒神山の取手を取り巻き、三時ばかり [6時間くらい] に攻め破るなり。

雑兵百二十余、武田方へ首を討取なり、味方も大勢 手負い・死人 これ有り。


長時公より差し置かれ候 士(さむらい)大将草間、今は叶わしと 天竜川を漸く(ようやく)越し渡り、七八 [764m-873m] 川向うの羽場・北大出へ引き取りなり。


すなわち晴信公は下諏訪に座す、典厩公、この段を晴信へ注進せらる。

殊のほか悦喜にて、仰せらるるは、


「内々、われら聞き及びしは、諏訪の者共と上伊那衆は親類縁者多くあるよしは、全く内通して二心あるべし、とおもい、目付を懸けておく所に、一切その模様なし。諏訪衆、わが父 信虎の代にも、わが代にも、頼重・小笠原長時に先手を致す時は、韮崎合戦を始め、たびたびわれらが先衆を追い崩し、突き敗る故に、様々策を廻し、諏訪を引き倒すなり。敵方の時は分別をもって何とぞ致したくおもいしに、今、われら下にて、かかる如くの働き、神妙に候。」


伊那を大概、踏み散らし、耕作を振り、帰陣候は、旧領の御朱印・御感状下されのよしにて、原隼人左をもって、仰せられ下すなり。

その後、百・二百貫、あるいは五百貫、千貫の御朱印・御感状を典厩をもって、これを下さるるなり。


(中略)


さて、武田より板垣信形をを塩尻嶺の押えに差しおかれ、箕輪・福与の城攻める為に、上伊那荒神山の砦に御陣取りなされ、先手は三日町上棚といふ所に陣取りなり、


諏訪甲州人数 五百余騎ばかり、雑兵共に三千五百の人数にて、福与の城を取り巻き攻めるなり、城に籠る武士には

・松島・大出(藤沢織部のことか?)・長岡・小河内・福島・木下、

是は大身の士(さむらい)なり、


このほか、

野口・手良・八手・平出高木・辰野・宮木・神戸・赤羽樋口有賀漆戸の者ども、

都合百余騎、雑兵千五百 籠城なり、


中にも 藤沢織部(藤沢一門で大出城に居城?)・大泉上総とて 強弓の射手あり、城の大手にこの者どもの箭(や)先に中(あた)り、寄手、大勢 手負い・死人これあるなり、


この由、長時公 聞こし召し、深篠(深志)城を打ち立ち給い、小野、小横川通り 天竜川の南の方、宮木の間、竜ヶ崎といふ処 御陣を成され、先衆は北大出・羽場に陣取るなり。福与城の後詰なり。惣軍勢一万五千の着到なり。


ただし木曽義康の人数 共にかくのごとくなり。


さてまた、小笠原 舎弟 小笠原信定、下伊那衆を将(い)て、鋳鍋(伊那部)に本陣を取り、右後詰として長時(兄)一左右(いっそう=一報)、あい待たれ候なり。この旗本には

下条・赤須・宮田・片桐・飯島・知久・座光寺・保科弾正・溝口・平瀬・大島、

このほか小身衆、合わせて三千余人の人数なり。


さるほどに、小笠原長時公の御陣場、竜崎山と 武田晴信公の御陣場、荒神山との間に、天竜川を隔て、漸(ようや)く 二十(=町)[2,182m] これあるなり、故に両陣の旗指物馬印、駒嶽の下嵐に吹き靡(なび)かせ、竜田・吉野の花紅葉(はなもみじ)も ただかくやらんと、敵・身方(味方)の貴賤、目を驚かし、近辺の百姓等 肝を潰して周章(しゅうしょう)(=うろたえること)し、西東の山奥へ逃げ入る事 限りなし。


しかるところに、晴信公 思召には、小笠原長時旗本にて、下諏訪通りの道を遮(さえぎり)て、平出より懸(かけ)来たらば、味方勝利有りとも、他国と云い、有賀峠通りも 下諏訪通りも難所なり。しからば、味方危うき事有るべし。その上、福与城、手強く責め詰める故、城主より人質を出し、無事を作り候事 幸いなれ。


福与の城、攻め手人数、早々引き上げよ、と仰せ遣わされ、夜のうちに下諏訪まで人数を引き取りたまうなり。その時、長時公の御錠は、今日是非とも晴信を前後より取り包み、有無の一戦とおもう所に、かかる如く仕合、是非に及ばずとて、各諸軍を引き上げ、松本へ御帰陣なり。

(後略)


注:按に(考えるに)頼親、この時、城を開きて羽広(=羽広村)に住す。今その地を「殿の小屋場」という。


注:「二木寿斉記」に曰く。伊那衆、この引き取り申すに付、箕輪殿、城、無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質に出し、箕輪殿、牢人(=浪人)なり。それについて、長時公も、林へ御引き取りなさるるなり。





『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より

 天文13年 [1544] 10月末 武田晴信は伊那郡荒神山に進み,藤沢頼親と対陣するが,「高白斎記」同年11年朔日 [1544.11/1] 条の筆に


「於松島原敵ノ首二十六、栗原左衛門 軍功」とある(信史11)。


またこの戦いでの 水上菅七 の戦功を賞した同年11月2日の武田晴信感状に


「今二日 酉刻  [1544.11/2 18:00ころ] 、於 信州 中伊奈 箕輪 松島前、頸壱ツ、討捕之事」とある(感状写/信史11)。




管理人考 2016

1544年の10月、武田軍が荒神山を攻めた。


その後の11月1日、栗原左衛門 が、松島のどこかで敵の首を26首、取ったという。

次の日の11月2日、水上菅七 が、松島の前で首を1首、取ったという。


松島の前とは松島城の前という意味か?松島城の正面が段丘下とするならば、現在の八十二銀行箕輪支店あたりのことだろうか?

他資料によると11月2日に武田軍が福与城に迫っているので、その攻防で上伊那・武田両軍が松島で激突したらしい。


・栗原氏は元武田氏。東郡栗原郷を本拠地として栗原と名乗った。→栗原氏

・水上菅七 は韮崎市清哲町水上を本拠地とした水上宗普(伊奈宗普・宗富・宗浮)の関係者・または本人か。伊那を活躍の場として伊奈氏を名乗るようになる。→甲斐武田を探検っ!!





『日本戦史 戦国編②』河合秀郎 学習研究社 [2002]

https://ja.wikipedia.org/wiki/高遠合戦


 天文13 [1544] 10月、宮川の戦いで武田軍に敗れて高遠に追い込まれていた高遠頼継は、福与城主の藤沢頼親、そして信濃守護で頼親の義兄にあたる小笠原長時の支援を得て再度反攻した[1]


武田晴信は1016日、諏訪の上原城に入城して諏訪衆や板垣信方と合流し、1028日に福与城に進軍する[1]


頼親は小笠原軍の将・草間肥前と伊那衆を荒神山砦に入れて守備を固めた。


翌日、武田晴信の同母弟の武田信繁軍が荒神山砦に取り付き、111日から攻撃を開始した。


小笠原勢は砦を捨てて後退し、福与城の後詰と松嶋原で合流し、武田軍の進軍を食い止めた。


116日、高遠頼継は武田軍主力が福与城を攻めあぐねているのを見て諏訪への進軍を開始。


武田晴信は118日まで諏訪に滞在して高遠・藤沢らを牽制しようとしたが、2手から迫る敵勢と戦うのは不利と見て、ひとまず諏訪から撤収して甲斐へ帰国した。


晴信の帰国を見て、頼継は上諏訪の武田方の屋敷などを焼き払った。




 

関連項目:竜ヶ崎城の戦福与城