樋前の城 所在地:辰野町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
この荒神山は伊那谷の入口にあって、位置も展望もいいので、各時代に必ず戦略的に利用されてきた山であった。この山の東方に、樋前の城址と呼ばれる所がある。明治初年に報告された文によると、東西四囲が判然とはしない、そして建築年月もわからないが、只松一本在するのみで、寿永 [1182-1183] 年中(義仲挙兵のころ)樋口次郎兼光が城館を備えていたという。この兼光の父は信濃の大じょう兼経と言って、木曽に住まって義仲に属していた。[p16]
兼光、平家討伐に大功
義仲が旗を挙げたが、兼光は、弟今井兼平と共に四天王の一人といわれた猛将で、北陸の平家討伐に大功をあらわした。義仲は破竹の勢をもって京都に侵入し、平家を追って一度は天下をとったが、治安や人心の懐柔に失敗し粟津ヶ原で戦死してしまった。その時、弟今井兼平も討死してしまった。兄の樋口兼光は捕らえられて京都で誅せられたが、六歳の遺児は助けられ、樋口左近兼重の名を与えられ、建久八年、鎌倉の頼朝に召され、旧領(平出の地)を安堵された。その子、長門守兼朝、光久を経て、大学頭光頼に至り、矢沢に移り大石城を築いた。これは応仁元年(一二九三)北条貞時の時であるという。[p16/17]
木曽殿の穀倉樋口
伊那を勢力のうちに入れた木曽は、一番便利な辰野辺に有力な将をすえ食料補給で後顧のうれいをなくしたものだろう。と、もう一つは、諏訪、甲州への関門として重視したものと考えられる。樋口氏の樋前の館址が明瞭でないというが、この近在に館を構えて、木曽と絶えず関連していたのだろう。
平出から赤羽を通り樋口から南の小河内に通ずる竜東線の東、荒神山の東に、小高く林をなした墓地がある。ここを樋口兼光の墓所と言っている。ここを樋前と想定している人もあった。城の形はなしていないが、館があったかもしれない。樋口といい樋ノ沢という名がこの付近にあるので、樋口部落を見おろす高台に、城館を構えていたと言っても不思議ではない。[p17/18]
町村誌の記録による樋口長門守光久、己が城館の大道より卑下なるを以て大石城を築いて移るとある。樋前城は大道より下にあるともとれるし、又、大道に対してみすぼたしいともとれる。[p19]