第三・武田と諏訪 和睦する


『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶  貞享3年 [1686]

「小平物語」より   ※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。


第三 武田殿 諏訪殿 和睦 相調える事




天文十二 卯年 [1543] 、武田左馬頭殿(武田晴信の弟・武田信繁典厩をもって、武田晴信公より諏訪頼重公へ仰せ遣わさるる趣は、


「この度、武田の味方になられ候はば、晴信、妹を人質ながら妻女に遣わすべし。その上に、信州治まり候はば、その方、望みの通り、神文の下書を致され、老臣を遣わすべし」


とて、すなわち、台ヶ原の取手へ御出馬にて、諏訪より起請文の判本の検使には、茅野・小平 両氏にて、台ヶ原へ参り、晴信の御目にかけ、色々馳走ありて、神文持参して、各上の諏訪へ帰るなり。




即 上野原城において、その年中に頼重、祝言あり。

その後、また、晴信公より仰せ遣わせられ候は、頼重 先腹(さきばら=先妻が産んだ子)の息女ありの由、あい聞き候。これを人質に甲州へ差し越され、一両度、甲府へ出仕あるよしなり。


この事(諏訪頼重と武田晴信の和睦・祝言の件)四方にかくれなく、長時小笠原長時大いに怒って、


「頼重、武田晴信と縁をくみ、幕下(ばっか=配下)になること、是非もなし(しかたがない)。これは我らの居城の林・深篠(深志)、あるいは伊那へ攻め入るべき計策(はかりごと)なり。この上は、諏訪頼重を踏み潰し、晴信と有無の一戦」


と、あい定められ、持分へ陣触(じんぶれ=出陣を命じる)あり。

長時公、三千の人数にて、岐岨殿(木曽どの)と諏訪峠を超え、下諏訪の城を攻め詰めして、それより上野原の城へ取り詰め、二三の曲輪(くるわ)を攻め破って、本城へ押し詰めるところに、武田晴信、後詰めとして信州蔦木まで出馬あり。



先手、板垣駿河守飯富兵部甘利備前、諏訪のうち、青柳まで参らるるところ、長時公舎弟 信定、伊那衆の大将にて、

・下條 ・箕輪頼親(藤沢頼親) ・保科弾正 ・このほか伊那衆残らず

・坂西 ・洗馬 ・赤澤 ・古畠伯耆

先手にて、長時公の旗本より懸けて、板垣・飯富・甘利を切り崩し、首五百あまり、長時方へ討ち取るなり。


注:古畠氏、藪原に住し、当時 藪原殿と称す。今の寺畠氏 その末葉なり。


甲州衆、早々退散なり。故に諏訪殿、小笠原長時公へ和睦によって、長時公も伊那衆も御馬入る(撤収する)なり。


それにつけ(前年に小笠原が諏訪/武田を攻め、諏訪頼重が小笠原長時と和睦した件)、明年、天文十三年辰 [1544] の歳、頼茂、甲州へ出仕なられる所、甲府柳町において、諏訪殿 生害(自害=自殺)なり。



よって諏訪衆、甲州衆とまた合戦をつかまつる所に、諏訪左馬介、不慮に討ち死にいたされ、その後、諏訪は武田の支配になるなり。


諏訪衆、ことごとく武田左馬頭信繁公の幕下(ばっか=配下)になり、それより、木曽・小笠原・伊那への先をつかまつるなり。下諏訪には板垣信方、城代にまかりあり。同所の小尻小尻城・尾尻城・池尻城=現在の岡谷市の花岡城)に取り手を構え、伊那への手伝のためなり。



注:諏訪頼茂の生害ありしは、天文十四年正月 [1545/1] なり。十三年 [1544] にあらず。福与の城、攻められし時、頼茂も先手に加えらる。「二木寿斉記」に見ゆ。


この時、甲州の武田へ、諏訪衆一々人質を出し候なり。その子細は、

・甲府と諏訪境までは七八里 [27.5k - 31.4k] あるなり。

・その上、諏訪衆、たびたびふりを致し候。

とて、かかる如く厳しく御仕置きなられ候よし。


小平円帰、物語る、くだんのごとし。







管理人訳:
03.「武田と諏訪 和睦する」


 1543年・天文12の卯年、武田晴信は弟である「武田左馬頭」(武田信繁典厩)を遣わして、諏訪頼重公へ、こう言ってきた。「今回、もし武田の味方になるならば、晴信の妹を人質として、妻に遣わそう。その上で、信州の争いが治まった時には、その方の望みの通りにする。神文下書(げしょ・草稿・下書き)を書き、老臣に持たせるように」と伝えて、武田信玄は「台ヶ原」の砦へ向かった。諏訪からは起請文の判本の検使役として「茅野」「小平」の 両氏が台ヶ原に向かった。起請文の下書を武田晴信に見てもらった。その後、色々ともてなしを受け、諏訪へ戻った。


そしてその年のうちに「上野原城」において、頼重の祝言が執り行われた。


その後、また、武田晴信から言われた。「頼重と先妻の間にの娘がいると聞いた。この娘を甲州に人質として差し出すように。一度、甲府へ出仕せよ」と。


 この「諏訪頼重と武田晴信の和睦」と「祝言の件」は周辺にも知れ渡った。小笠原長時は大変怒り、「諏訪頼重が武田晴信と縁組をし、配下になること、仕方ないことである。これは我らの居城である「林城」「深志城、あるいは伊那へ攻め入ろうとするはかりごとである。こうなったら、諏訪頼重を踏み潰し、武田晴信と決戦を」と決心し、家臣と同盟者に出陣を命じた。


 小笠原長時の軍勢3,000は、木曽氏と諏訪峠を超え、下諏訪の城を攻めた。そして「上原城」に向い、いくつかの曲輪(くるわ)を攻め破って、本城へ押し詰めた頃、武田晴信は後詰めとして「信州蔦木」まで出陣した。


 先手である「板垣駿河守」「飯富兵部」「甘利備前」が、諏訪の領内の青柳まで来た。この時、小笠原長時の弟であり、伊那衆の大将である 小笠原信定の軍勢のうち、先手として、「下條」「箕輪頼親(藤沢頼親)」「保科弾正 このほかの「伊那衆」残らず。それと「坂西」「洗馬」「赤澤」「古畠伯耆」が、小笠原長時の旗本より懸けて、「板垣」「飯富」「甘利」を切り崩し、首を500あまり討ち取った。


注:「古畠氏」は藪原に居住し、当時「藪原殿」と称していた。今の「寺畠氏」はその末裔である。


 甲州の軍勢は早々に退散した。そこで諏訪殿は小笠原長時公と和睦した。小笠原長時も伊那衆も撤退した。


 小笠原長時が諏訪と武田を攻め、諏訪頼重が小笠原長時と和睦した件を受け、翌年の1544年・天文13年 辰の年、諏訪頼茂が甲州へ出仕し、甲府柳町において、自害させられた


 そこで再び、諏訪は甲州と合戦となったが、諏訪左馬介が不慮に討ち死にし、その後、諏訪は武田の支配となった。


 諏訪衆はことごとく武田左馬頭信繁(武田信玄お弟)の配下となり、それから先は、木曽・小笠原・伊那への先手を務めることになった。「板垣信方」は下諏訪の城代となった。下諏訪の小尻小尻城・尾尻城・池尻城=現在の岡谷市の花岡城)に伊那への侵攻のために砦を築いた。


注:諏訪頼茂が自害したのは1545年・天文14年の正月である。1544・天文13年ではない。「福与城」を攻めた時に諏訪頼茂も先手に加えられていた。「二木寿斉記」に記述がある。


 この時、甲州の武田へ、諏訪衆はそれぞれ人質を出した。「甲府と諏訪の境までは7〜8里(27〜31キロ)もあること」「更に、諏訪の衆は何度か従うふりをしたことがある」という理由からである。このような厳しい扱いをされた。


「小平円帰」がこの様に語った。