『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
” 昔の人のいいつたえによると、この村では多ぜいの人が死んだので、生まれるものに双児が多い ” とうちのおばあさんから聞いたことがあると、ある高校生が話してくれた。[p57]
この川(桑沢川)の北岸に無縁仏の塚がある。大正年間 [1912-1926] のことだそうだ。青年たちが道ぶしんをした時、土の表面のわずか下からおびただしい人骨が出て来た。気味がわるくなって、又いけてしまったと。[p57]
またここは妙なことに、先地を二ヶ所宛もっている。両墓制というそうだ。諏訪の方にはあるそうだが、上伊那には例が少ない。[p57]
伝説によるとこの沢村は、西山つきの長田(ながた)から分かれて来た村だ、とされている。水のない桑沢川も川しもになったところに、長池、男女川(おめがわ)という二つの妙な湧水の池がある。年中水が絶えない、濁らない、水温は井戸と同じである。村の人たちはここを生命のつなとして、あらゆる水利用に使っている。湧水は三尺巾 [91cm] をながれる位の川をなして天竜にそそぐ。この川の両端は昼も暗くなるほどの森林をなしている。部落はこの湧水を中心に密集している。
鉄道線路の西二百米にゆるい丘が北につづいて、やがて羽場に近い所で平坦となってしまうが、この丘の下端が又、湧水の水源をなして、わらびや台湾ぜりが青々と繁っている。人が住んでいなかった所でない、人のすむには絶好な所であったのに、一時人が住まなくなって、山ぎわの約一里位西 [3.9km] の長田からここに移りすんだ人々が大出城村と沢村のもととなったという。
この村に門屋といわれる地主さんの家がある。先年亡くなられたが、農業経済で学位をとられた大槻さんの家に伝わった古記録に、「大出沢村根元記」という文書がある。昔からの伝聞をあつめたものだが、その本をみせてもらってから、このふしぎな村の様子が大分はっきりして来た。[p57/58]
建保二年 [1214] 、将軍実朝の時、坂西長門の守の二男兵庫頭(ひょうごのかみ)というのに伊那の領地を賜わり、大出に居住、箕輪を領すとある。飯田城の奥に祭ってあった熊野権現を分神し、大出城の大手の地に祭った。
飯田の真言宗の行者、伊殿井伯耆(ほうき)という別当職であったものを呼びよせて住まわせた。今でも沢部落の一番北の天竜岸にその居館のあとがあり、掘と家の前に土居のあとがある。その北に鎮守の社宮神という大木の森があった。[p60]
しかし、この大出殿は木曽氏に亡ぼされ、伊殿井家も絶家となり、のちに天文年間、武田の配下であった有賀讃岐守がこの居館に住まうことになった。今も、有賀という人の住宅地であるが、その先祖との関係ははっきりしない。[p60]
これ(元高橋神社参道の鳥居)から北、電車の線路をはさんで西東に、大きな市場があって、ここを西から西町家、中町家、東町家とよんでいる。東町家に、酒やという家と邸宅がある、そこの坂を市坂とよんでいる。この市坂は大出の大永寺の北の掘に通じている。今の田の中の河原を行く道は、古地図にもないし又、昔からの本道は大永寺に通ずる道だといっている。[p60]
古城の城主坂西系の大出氏が亡びたのは南北朝時代のことで、想像するならば、この時の合戦で沢村は殆んどかい滅、四散おびただしい人骨などはこの時の所産であろうか、今は無縁仏の供養碑が立っている。この上の原は蓮台といい、共同墓地となっている。[p60-61]
建武年間 [1334-1336] 、木曽又太郎家村、権兵衛の峠をこえて伊那に侵入、大出殿討死。ここにあった月照山金剛寺は大出氏と松島氏の位牌所であったが、焼きはらわれてのちに松島に移って、今は金剛山明音寺となって存在している。[p61]
大出氏が木曽氏にやられ、沢村から山麓の長田に引退。桑沢川の北を北大出、南長田の辺を南大出と云った。[p61]