『下伊那郡史 第四巻』 昭和36年 [1961] 出版
※原文は詩調。読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。
下古田は深沢川をはさんで上古田の北東につづく山麓の扇状地で、北際の北ノ沢は東南流して深沢川に注いでいる。
上古田に比べ概して起伏が多い。聚落は北西部に発達し 道路に添うて民家が密集する。
台地の中央下段の 字「佃田(つくだ)」からは灰釉陶器の出土あり、そこが古い郷土であることを裏書きし、北方に近く「ませ口」の地字あり、北の沢をわたったところには 字「馬飼場」がある。
(大出地籍)共に駅馬と何等かの関係があろう。そして「つく田」「ませ口」の地籍には 少規模ながらも南北に通ずる道路(おそらくは古道)の東側に、巾さ三十間 [54.4m] の 細径と水路で限られた地割のあとが明らかに認められる。
後ろには近く高い連山を負うているから 豊富な湧水があり、麓には古く拓けた水田がある。
また「池の御堂」「高御堂」「寺田」などは、ある時 そのあたりに寺堂があったという古い文化を物語る字地である、
南部 深沢川の谷の近く 県道をはさんで、その西方は「今村」「待屋」で東方は「南原」である。「南原」は水田よく拓け 総面積は 三町三反 [3.26ha] ほどもある台地上の平地で、その南面は 深沢川に望んだ急傾斜で、「上深沢日向」「深沢日向」などの字地がある。「待屋」「今村」は道路の西側にある あまりひろくない 河に望んだ台地上の平地である。「待屋」の北方に連なる上段丘麓のひろい傾斜地にも「待屋」「今村」の地字がある。これは後代の拡張地名ではあるかも知れん。
下段の「待屋」「今村」は 現在一軒の民家もない 荒涼たる原野であるが、上古田唐沢家の古記録によると、その昔「今村」にあった聚落が 戦国の頃南北にわかれて、「上古田」「下古田」の二部落になったのだという。これによると、「今村」あたりは上下古田の故地で、そのむかしは人家の密集する文化中心であったと想像せられる。
(中略)
ところで「下古田」「上古田」の「待屋」にしても、宮田北割の「古町」「町屋」「北町屋」「南町屋」にしても、また駒ヶ根市の「小町屋」など、いずれも平地の水田地帯であるのによると、下古田の「待屋」は前記②③の「町屋」で、現在人家は廃絶したが、その昔は人屋の多く建てならんだところであったと解釈されるのである。
すなわち 下古田の「待屋」は、深沢川に近い人家密集地で、かつてはこの地方文化の中心であり、また前説の如く、近くにはわずかながらも地割の痕跡あり、「つく田」という古水田、また「柵口(ませぐち)」など 牧関係地名あることなどを綜合することにより、直接の裏付資料に欠けているけれども、この「待屋」「今村」「南原」に深沢駅があったものと考定することができる。笠原政市氏も この下古田説を支持している。おそらく「待屋」「今村」に駅の本拠、東北地続きの小高い「大久保」「鋤柄」あたりにニ、三十戸の駅戸あり、駅田は「南原」の水田地帯にあったものではないかと思う。
(中略)
市村先生のお説による「待屋」「今村」はいちいち肯かれるところではあるが、弥生・土師・須恵・の遺物を多量に出し、古墳にも近く、近辺から銅鏡を出し 清冽の水を豊富に利用し得たり、「馬飼場」に近い「堂前」「北又」「ませ口」「葭原(あしはら?よしはら?)」から「池の御堂」あたりではないかと考える。←笠原政市・小池修兵「深沢の駅」(伊那路三ノニ、昭和三四、五)
管理人考:
昭和36年の段階での東山道深沢駅の場所を推定する記事である。このころより
「上段説=西山沿いに東山道=深沢駅は上下古田」
「中段説=現春日街道沿いに東山道=深沢駅は大出・沢」
「下段説=旧国道153号線沿いに東山道=深沢駅は松島」
などの諸説があったが、2017年現在は、松島の深沢川右岸、中部電力変電所拡張工事の際に「東山道」かもしれない 広い幅の古道が発掘されたことにより中段説が有力となっている。
『箕輪町歴史行脚』小川竜骨 昭和54年 [1979] 出版
※原文は詩調。読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。
朝日に映ゆる前山の麓に展く(ひらく)下古田。六十戸の人心、一つに丸き輪を描く。湧く水清く豊にて六壙石(ろくこうせき)の玉と澄む。
古墳
尋ねん、北の「稲荷山」。二基の古墳は、平安の末頃、首長葬りしか。訪う(おとなう)人も無かりけり。
戊亥地蔵尊
高き背山の頂に、風切り「戊亥地蔵尊」。雨風雪に晒され(さらされ)ぬ。
古い地名
・佃(つくだ)
・馬塞口(ませぐち)
・竜ヶ崎
デエラア坊
松の林の其の中に、デエラア坊の足の跡。
古い地名
・「社宮寺」(しゃぐじ)
・「上溝」(あげみぞ)
・「十郎」に
・「待屋」
・「今村」
・「高見堂」
・「池の御堂」(みどう)に
・「葭原」(よしはら)や
・「北又」
・「犬吠」(いぬぼえ)
・「馬飼場」
銅鏡
銅鏡の出し「堂前」と、
深沢駅
其の名も古き字々(上記古地名たち)は深沢(みさわ)の駅の名残かや
病人山
「病人山」の名称が、後に変りて「御神酒山」(おみき)。
妙楽寺
真言宗の「妙楽寺」。開山よりの本堂に静まりませる幾御霊(みたま)。観音堂の、み佛は「千手観音菩薩」にて、衆生済度(・衆生=すべての生き物・済度=迷いの苦しみから衆生を救って悟りの世界に渡し導くこと)の本領を永劫(限りなく長い年月)に垂れ給うらん。
戦国時代の館跡
戦国時代、勇将の館の跡と伝え来し、
・「西垣外」(にしがいと)に
・「堀の内」。
市の原古戦場
大久保川の片ほとり、謎まだ解けぬ「市の原古戦場」とは幻か。
伽藍跡
伽藍(がらん=寺院の建物)の跡か。傾斜地に「礎石」(そせき=建造物の土台となって柱などを支える石)点々露出せり。
猪土手
猪鹿(とか)の野荒し防ぎたる土手、長々と裾を縫う。
山の上の浅間神社
浅間神社例祭を千間登る山の上。行事は今に伝われり。
岩ふすべ
宮沢面(つら)の岩ふすべ(ふすべ・贅=こぶ・いぼ)。造化の神の悪戯(いたずら)か。
夫婦の蛇
夫婦(めおと)の仲を断たれたる二匹の蛇の執念は、何時になりてや消ゆるらん
京から来た白拍子
京より死出(しで=死んであの世へいくこと)の旅立ちと知らで果てたる白拍子(しらびょうし=平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人)。破れし夢の果敢なさ(はかなさ)よ。
今村の堤
青み湛える今村の堤は、利沢千秋も水を潤す(うるおす)八町歩。
稲の香り
粟に群れ来る鳥追いを、子守り仕乍ら(しながら)鳴子(なるこ=穀物を野鳥の食害から守るため使われた道具)引き、二百十日(にひゃくとおか=立春を起算日として210日目)も無事に過ぎ、刈干す(かっぽす)稲の香の高く、青天井の日本晴れ。
新蕎麦
焼き味噌の辛つゆ(からつゆ)かけて忘れ得ぬ、新蕎麦の味。
養蚕と農耕
かつては蚕飼い。黄金の時代に、ほっとせしことも。
刈敷(かりしき・かしき=田植え前に広葉樹の若芽や草などを山から採取して水田に踏込み肥料とする)かりや、畑鋤き(はたけすき=種まきの用意のため畑を打ち返すこと)に、馬を便りし農耕を思い起こせば懐かしや。
どんど焼き
何時の頃かは知らねども、伝承誇る「どんど焼き」。郷土を背負う逞しき(たくましき)子等の正月行事なり。
白山神社
白山神社、山の神。祀る萬(よろず=たくさんの・すべての)の神々や。
辻の石仏
辻に並べる石佛。一つ一つに血が通う、祖先の文化遺産ぞや。
ああ、遠つ祖(おや)の睦み(むつみ=互いになれ親しみあう)つつ、粒々辛苦(りゅうりゅうしんく=米の一粒一粒が農民の苦労の結晶であること。転じて、こつこつと地道な努力を重ねること)耐え忍び、骨身砕きて拓き(ひらき)たる、国原沃土(くにはら=広い土地・よくど=肥えた土壌)下古田。富は千百秋(せんひゃくしゅう・ちおあき=限りなく続く長い年月)までも。
下古田の古地名
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