伊那衆と大塔合戦(南北朝)1400

伊那衆と大塔合戦 関連地:長野市・千曲市


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 日本全国南北派に分かれて相争った争乱も納まったかの如くに見えた応永年間、小笠原長秀は先祖からの系統もあって、信濃の守護職として新らたに将軍義持から命をうけた。南信は旧系からの主従関係からその勢力圏であったが、北信、佐久はその威令、必ずしも徹していなかった。そこで善光寺参りという名目で伊那衆をつれ、威武堂々と和田峠をこえてその威勢を示しながら善光寺に入った。

 長秀は始めから高圧的に諸衆を見下し勢力削減をはかり、居ながらにして信濃一国の采配をふるおうとした。しかし長秀は久しく京都に住み、小笠原の礼法家として公家化してしまった。それに長年戦いあげて来た野武士たちがそのまま従う筈もなく、暗に互に連絡をとり応永七年 [1400] の夏、いよいよあからさまに反抗の態度を示して来た。

 長秀もいよいよ最後の対決を決心し九月二十三日、南信方面から率いて来た手勢八百余騎を引きつれ篠ノ井の横田河原に布陣してみると、反軍三千五百騎。正面衝突をさけて、一まず稲荷山の山手の塩崎城に入った。しかし籠城すれば日をまって没落するより他にないからとて十月十六日の夜、血路を開いて攻めこんだ。

 しかし多勢に無勢、たちまち両断されて長秀らは塩崎城に、あと三百騎は大塔(おおとう)の古要害に逃げこんで、急造した掘と柵で、ひそかに援軍をまった。しかし、寒さと飢で馬まで殺して食い、ただ飢をしのぐばかり。遂にたまりかねて二手にわかれて切りこんだが、たちまち切りふせられ、打ち倒されて全員討死にしてしまった。

 塩崎にいた長秀も自殺しようとしたが、いさめられ、ひょろひょろになった城兵共に佐久から来た大井氏が調停に入って、やっと長秀は京都に逃げのびた。この報告をきいた幕府は長秀を守護職から罷免、この合戦の時に、宮田の中越備中守なども同行している筈で、福与の藤沢右京亮も同行し、その合戦の時には勇壮無二の働きをなしたと伝えられる。[p44/45]