「福与②の合戦」 (戦国)1545





 『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年 [1964-1969] 執筆


 これ(荒神山の合戦)より先、高遠頼継は諏訪併合に野心をもって甲州軍が諏訪を攻める時は応援して宮川以南を領有したが、甲州軍の守兵手うすとみるや一挙に諏訪を占領しようとして失敗。杖突峠より追っぱらわれて高遠の奥に逃げこみ、やっと息をしていた。この高遠勢の諏訪攻撃を応援したのが松島にいた禰宜(ねぎ)(神主)の松島満清であり、福与の城主次郎頼親であった。[p46]

 天文十四年 [1545] 四月十五日、武田勢は杖突峠に登り十七日には高遠を占領、二日おいて二十日には福与を攻撃しかけた。甲州軍福与を攻めるためには、荒神山の背後にある宮所の竜ヶ崎城の小笠原長時の軍が危険で仕方がないので、五月二十一日には甲州軍の今井相模守信らが攻撃をしかけた。が、どうしても落ちない。そこで駿州今川義元の援兵を借り、板垣信形(方)が改めて二十二日に攻め出し、その月の終りにやっと宮所を占領することが出来た。そこで小野方面の背後の心配がなくなった甲州軍は義元の援軍の勢をかりて福与を攻めたが、その山城とその周辺には、深志の小笠原長時----妹が頼親の妻である----下伊那から小笠原信定赤須、宮田、片桐飯島、高遠の部下であった保科正俊、溝口、市ノ瀬、下伊那の大島氏など、伊那の諸衆が殆ど集まって福与の台地を守り、甲州軍の侵入をゆるさなかった。[p46/47]

 

 ここは攻むるに不都合で、守るに都合のいい台地である。西は沼田地帯で、天竜の春の増水期であり、北は長岡の台地からは山が崖にせまり三本ほどの深い沢に切られ、背後は藤沢ぼらまで続く山地である。大軍を入れるには南の手良八ツ手方面からでないと不可能だが、ここも狭く、郷沢川によってたち切られている、福与の台地は西に傾斜し、幅三〜五百米の南北三千米。ほとんど道は坂道だ。伊那衆武士百余騎、雑兵千五百。旗、指物が立ちならび、それを遠まきにした攻撃軍の旗、吹きながし、合図の鐘、太鼓、法螺貝のひびき、時々上がる不気味な狼煙の合図、衝突したらしい喚声怒号。農民たちは田の仕事も手につかず、ただ恐れおののいて様子をみていたという。[p47]


 しかし攻撃軍は統一された軍に今川の加勢があり、一方はただより集まっただけの諸衆だった。それも宮所の竜ヶ崎の城山が落ちないうちは勢いづいていたが、六月一日にここが落ちると、内部に分離の気配が出て来た。それに二ヶ月にわたる固着した戦争に自分の領地も心配になり、諏訪の神長(じんのおさ)守矢頼真をたのんで仲裁話が出た。一説には小山田羽州信有が和議を持ちこんだともいうが、頼親は弟権次郎を人質にし、十一日には身血(血判)して和議に応じた。あわれ権次郎は人質となり、甲州の穴山信君につれ去られた。その末はわからないが、大方殺されてしまった様だ。 和議に応じた頼親は甲州の信玄の所にしばしば出仕していたが、和議がなって、伊那衆が退散してしまうと、城に火をかけられて焼きすてられてしまった。[p47]


 天竜川の東崖、藤沢頼親は福与の城により、信州侵略の二段跳びに移ろうとする甲州の武田軍に、深志の小笠原と、上下伊那の諸衆が総力をあげて戦うも、戦上手の歴戦の兵と統一した指揮、今川義元軍の応援とでとうとう福与開城となり、敵の放火によって赤肌の廃城となってしまった。 藤沢氏は歴代剛弓の名手で、毎年行われる鶴ヶ岡八幡宮の射礼には、欠くことの出来ない射手一家 であった。部下にも強い射手もそろっていたが、とうとう武田に膝を屈せざるを得なくなった。武田に頭を下げた頼親は二、三回甲府に出仕して、弟権次郎の身請を懇請したのだろうが、武田にしてみれば、頼親は小笠原の義兄弟であり、伊那衆を糾合して小笠原と連合し、武田の進出を喰いとめた強剛な者である。これが信濃に居て旧来の縁故を集めたら、誠に厄介な存在だ。諏訪頼重の例にもある様に、早々片づけねばならぬ。その気配は充分みとめられた。 頼親もやがては甲府によばれて、そのまま片づけられる気配だ。そこで頼親は、こっそり抜け出して、松本の小笠原に身をよせた。[p50]

 




『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より

 天文14年3月 [1545] 武田晴信が伊那郡に攻め入った時のことを記した「二木家記」に福与城に籠城した武士として「箕輪頼親侍衆松島・大出・長岡・小河内・福島・木下,此衆何も箕輪殿内にて大身の武士なり」とあり・・・





『現地案内板 長野県教育委員会』より 昭和63年3月 [1988]


長野県史跡 福与城跡

 この城跡は天竜川東岸段丘の緩傾斜面を利用した中世の平山城跡である。

この城の創設は鎌倉時代と伝えられるが、城主についてはつまびらかでない。天文年代(一五三二〜一五五五)になると藤沢頼親が城主として勢力を張ったが、武田晴信(信玄)の伊那攻略にあい、天文十四年(一五四五)に落城し、城は焼失した。

 城跡は、幅が東西三百三十メートル、南北四百四十メートルで、本城・北城・南城に区分されている。本城は第一・第二の郭にわかれ、空堀を隔てて北城に対している。北城は本城より一段低い平地で、最初ここが本城に使用されたともいわれる。南城は本城の南に位置し、やや高低差があり、物見櫓といわれる場所もあって、遠見には好適の地点であった。

 武田氏によって城の建物の焼却があったものの、当時の遺構を残しており、戦国時代の居館と軍事的防塞の機能をかねあわせた平山城の様相を知ることができ、貴重な城跡である。


長野県教育委員会


2007年7月撮影





『現地案内板 長野県教育委員会』より 昭和48年3月 [1973]


長野県史跡 福与城跡


指定 昭和四十四年 [1969] 七月三日、長野県文化財保護条例第二条により長野県史跡に指定。


規模 この城跡は本城・北城・南城を中核とし権次郎・物見櫓跡・乳母屋敷・宗仙屋敷・赤穂屋敷等の遺構をもつ大規模な平山城である。本城は第一郭(主郭)第二郭に分れ主郭は北は浅い空堀で北城をひかえ、南は深い空堀を隔てて細長い南城に面し、東は鎌倉沢の谷に臨んでいる。第二郭は主郭の西方崖下に位し、南北二段よりなり、大手口はこの面にあたる。搦手の豊口に近く二条の外堀が見られ、水の手をここみもとめ、町屋は初め福与に、後、三日町に設けたようである。


説明 この史跡は鎌倉幕府に勤仕した藤沢氏(神氏系)が室町中期から箕輪郷を中心に此処を根拠に威勢をふるっていた。その後天文十四年 [1545] 三月、諏訪・高遠を攻略した武田晴信は、伊那谷への進攻を策し、その門戸に位置するこの城に迫った。城主頼親は上伊那衆を結集して連日激戦をなし、更に深志の小笠原長時及び小笠原・知久氏等下伊那衆の来援をもとめたが空しく篭城五十日ついに六月、舎弟権次郎を人質に開場し、城は放火破壊された頼親は流浪の身となった。

 かかる痛ましい歴史を秘めたこの城跡は藤沢氏以後改修をまぬがれ、ほぼ戦国期の原型を今日に遺していることで貴重な城跡である。


昭和四十八年 [1973] 三月二十日建設 長野県教育委員会 箕輪町教育委員会


2007年7月撮影



2007年7月撮影





関連項目:荒神山の戦い竜ヶ崎の戦田中城