『上伊那郡高遠町兜城公園風景』 明治32年 [1989]
※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。
高遠城沿革
天文十八年 [1549] 七月 武田信玄ニ被攻 木曽ヘ帰ル 夫ヨリ保科弾正正俊在城ス
弘治二年 [1556] 信玄 信劦一國ヲ専領ナシテヨリ 城代トシテ 同年十月ヨリ 秋山伯耆守源直義
永禄五年 [1562] 戌六月 同郡飯田ノ城代ニ転ス
此跡 信玄ノ四男 武田四郎源勝頼 居之
其後 兄 武田太郎義信 生害依テ 勝頼ヲ挙テ嗣トス
元亀二年 [1571] 甲府ヘ帰ル
此跡 城代 武田上総◯源信綱入道逍遥軒ヲ置ク
天正元年 [1573] 信玄ノ五男 油川五郎継キ 仁科五郎源信盛 在城
天正十年 [1582] 三月一日 織田信忠ノ為ニ滅フ
管理人訳:
高遠城沿革
1549年・天文18年7月、武田信玄に攻められ「千村内匠」は木曽へ退いた。その時から「保科弾正正俊」が城に入った。
1556年・弘治2年、武田信玄が信州を自分の領地としてからは、城代として同年10月から「秋山伯耆守源直義」が入った。
1562年・永禄5年戌 6月、「秋山伯耆守源直義」は同郡の飯田城の城代になり高遠城から飯田城へ移る。
このあと、武田信玄の四男である「武田四郎源勝頼」が入った。
その後、武田勝頼の兄「武田太郎義信」が自害したことにより、武田勝頼は武田家の跡継ぎとなり、1571年・元亀2年に甲府へ帰った。
このあと城代として信玄の弟である「武田上総◯源信綱入道逍遥軒」を置いた。
1573年・天正元年、信玄の五男である「油川五郎」が仁科家を継いで「仁科五郎源信盛」となり、在城した。
1582年・天正10年3月1日、「織田信忠」の侵攻のために、「仁科五郎源信盛」は滅んだ。