矢島氏の天白古城 所在地:辰野町
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆
辰野高校のグランドの北の堀は糞ン堀という名がついている。いわれは知らないが、これが矢島氏の城館の一郭らしい。辰野高校の開基は人も知る如く、武井製紙の武井覚太郎氏の篤志寄附によって出来た学校で、環境の美しさは有名であった。この校地は矢島氏らの館址であった。
学校の南端の丘上にあったのが天白の古城と言われ、弘治年間、武田が伊那を征服する時に城主の矢島勘六というものがここに住し、その子、勘兵衛が相続していたが、天正十年織田の侵攻にあって民間に降ってしまった。この天白の古城といわれる丘は辰野高校の花畑になって、その東南の隅には、天白様が祭ってある。[p28/29]
矢島氏の天白古城
矢島勘六は、この天白台地の上に館をかまえ、古道は、この西の(西天竜の川筋)凹地を南北に通っていた。丘下の浄土宗長久寺の窪地に良質の湧水池があり、諏訪社を祀る宮木の森はその前面にある。
辰野高校の校地の西に南北に一貫した直線的な古道があり、その西五十米の所に要害(ようがい)とよばれる二反歩位の土囲をもった四角形の桑畑が残っている。徳川が天下を統一すると各国大名所領の城塞は一切取りこわさせ、一国一城のみをゆるした。が、要所には必要に応じて、砦(とりで)はゆるした。これを要害と言った。辰野の要害は道をへだてて東に天白の城があり、その間には道を通して矢島氏らが監視していたものだろうか。[p29]
要害の前を通る古道は南に向かうと墓地に入るが、この辺を、サンゲナシという。即ち山下、城下の意味であろう。この道は宮木の森の南をくだると小学校の校地をななめにすぎて横川をわたり、天竜を東に越えて平出に出て、有賀峠から諏訪に通ずる。[p29]
『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より
地内中央の段丘上に天白城跡があり,戦国末期に地侍集団上伊那十三騎の一員であった矢島氏の城館跡と伝える。