『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆 [1964〜1969]
小野の東山道
天然記念物のたのめの森の裏を、昔の三州街道が通っているが、今は古町という。古名、新町というと県庁に報告されている。東山道の古道は、この森の前を通っていたという、この古町を南にたどると、祭林寺に出るが、ここから西に谷を入ると、桜沢往還という。[p8]
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆 [1964〜1969]
宮木の東山道
西天竜の流れは、辰野高校の下をトンネルで抜けてサンゲナシを流れて新町耕地を通り、神戸に至る。すべて山ぎわを通り、この川筋は春日街道の道筋と大体一致している。ここを通ったにちがいない。古代の官道東山道も大体この道すじを通ったと考えて間違いないと思う。[p29]
『伊那の古城』篠田徳登より 昭和39〜44年執筆 [1964〜1969]
箕輪の東山道
(平安時代、関東の治安が悪く)都からはるか離れているので、初め平氏の系統が、この治安に当っていた。利根川の北岸にいた平将門の反乱があり、ついで同族同士の反乱がたえないので、朝廷は源頼信(よりのぶ)を甲斐の守に任じ、諸国の国司と協力させてやっと平定することができた。源氏が東国東北との連絡は東山道の伊那道を通っていたから、ここ(箕輪あたり)は随分賑やかな通路であったにちがいない。[p66]
『下伊那郡史 第四巻』 昭和36年 [1961] 出版
※赤字は管理人の加筆です。
春日街道は 西春近村小出 の山本より小黒川を超えて伊那市に入り 上荒井にいで、それよりは 長さ三里 [11.78km] 幅員一里 [3.93km] に及ぶ、見かすむばかりの大平原を一直線に北行、大泉・木下・松島の西方原野をすぎ 深沢川の谷を超えて大出台地に上り、そこを出はずれたところで 今の伊那街道と合致する中段道である。
近世初期のことである、天竜川西の道路(今の国道筋)は、曲折あり、且つ上り下り多く 交通運輸に不便であったから、飯田城主京極高知は、文禄二年 [1593] に その街道を西方台地上に移そうと企てたが、大工事であったため 在城中に完成せず、次の城主 小笠原秀政は 家臣 春日淡路守に命じて工事を続行させ、慶長十三年 [1608] に竣工した。監督者 春日淡路守に因んで春日街道と称することになったのである。
然るに沿道には森林・草地 多く 湧水に乏しく、聚落発達せず、人家ほとんどなく 盗賊出没するにより、盗人街道とさえいわれる様だったから、慶安二年 [1649] 伝馬道を東方の今の台地下に写したので、春日街道は開通以来五十年にして廃道となったが、(唐沢貞治郎「上伊那郡史」八百九十頁)地方人には この道を利用するものが多かったから、多少の断続はあるが、二間巾 [3.636m] の道形は今でも一直線に残っている。
近ごろ西天竜の水路工事の完成により 附近一帯は広い水田ができて面目を一新し、昔の姿は見られなくなり、街道筋の聚落にも復活した部分も見られる。これは伊那市以北における春日街道の略史である。
東山道はもと ここを通っていたが、廃道となった後 その跡を改修して、春日街道を開いたと説くのが、いわゆる中段説である。(友野良一「深沢駅址考」伊那考古五六号併号 昭和三十一、一一「東箕輪村史蹟臨地踏査要項」)
ところが、近世以前の春日街道は前説の如く、未開発の荒野であり、明治時代 [1868-1912] になってからも この地域一帯は大森林におおわれ、一たび迷い込めば 容易に本道へは出られないような所で、湧水は勿論なかったと 古老は語っており、その上 縄文土器はあるが、土師器・灰釉陶器等の古墳時代行こうの遺物は全然見当たらず、古墳も存在しなかったことがわかり、古代においても住民のいない未開発地であったとおもわれるから、駅路がここえお通っていたとは考えられないという反対意見がある。 [p634〜]
大出は 深沢川左岸台地の東南端にある 旧三州街道の宿場で、今なほ民家 軒をならべて 古駅の面影を残存する。
松島の原を北上する 旧春日街道は 深沢川の渓谷をわたり、国道の西方において台地上に出で、宿をはずれた高橋神社前あたりで国道と合一、旧春日街道の深沢渡河点の北岸に接して 道をはさんだ
「深沢」(2386・2388〜2379)
「春日街道下」(1400〜1403・1407・1408)
の字地に約八反歩 [7934㎡ 2400坪] の平地(現在水田)を中心とし、
その西につづく河岸の「上深沢」
一段高く道をはさんだ「神の木」(上の柵か)
「深沢の立」(深沢の館か)に駅の本部あり、
そしてまた駅戸は 台地上の字「屋敷添」のうちに
駅田は「春日街道下」 の東につづく河岸、「大脇」「山ノ神」「三下り」「深沢北」のうちにあったものと推定される。[p639]
※以上は友野良一氏の大出深沢駅説の要点である