「たつの」のいわれ
辰野町ホームページより
辰野(たつの)という地域の歴史は古いが地名の由来について、はっきりとわかっていませんが、興味深い伝承や資料が残されていますので、ご紹介します。
辰野町資料(第22号)に掲載された伝承
「昔荒神山はもっと大きく東西の山々に連なり天竜川をせきとめて、辰野は湖であった。この湖には一匹の竜が住んでいて、天へ昇ったり下りたりしていたが、ある時大 雨が降って湖の水は氾濫し、ついに荒神山の東西を切り崩して流れ出し、湖はひいてしまった。水がなくなったので竜も天へ昇ってしまった。それで辰野というようになった。」
※荒神山のある地籍は「樋口」ですが、これも水が流れ出た際に付けられたとも言われています。
江戸時代後期の国学者・松沢義章の著書「洲羽国考」
「この辺りに1里(約4キロ)四方の湖があり、「天ノ竜ノ海」とよばれていたことや、天竜川は以前、荒神山の東を流れていたのが、現在の西を流れるようになり、湖も沼となり、やがて干潟となり、辰野の地名が残された」との趣旨が記されています。
真偽のほどはわかりませんが、大城山から見るとその昔、確かに竜の棲む大きな湖があったように感じることでしょう。
辰野町の由来
辰野町商工会ホームページより
太古の昔諏訪湖から流れる天竜川は、荒神山でせき止まり湖沼を作っていた。北西に位置する穴倉山からの尾根筋が、その沼に向かってあたかも竜が伏した姿に見えたところから、頭の部分を竜ヶ崎と呼び、その沼を滝沼と呼んでいた。
その後天竜川の流れが変わって、干し上がった処をて竜野と言われる様になった。(洲羽国考より)
『八王子神社由来記』より
八王子神社由来記 八王子神社は素戔嗚尊の御子等八柱を祭神とする。「南信伊那史料」には、太古、荒神山の北方(平出・辰野地区)はすべて湖水で、大蛇が潜み辰の湖と称した。東側(樋口地区)は水門の役割を果たしていたが、洪水のため破壊され、湖も次第に涸れて平野となった。
その後この地方には毎年疫病が流行し、人々は大蛇が居を失った祟りと恐れ、八柱奉祀して無病を祈願したところ、病は忽ち跡を絶ったという。ために、近郷近在から数里を遠しとせず参詣し、その霊験も著しいと記されている。
造営年代は定かではないが、寛保二年 [1742] の「社壇造立入用覚」が残っている。明治三十三年 [1900] 、社殿周囲に玉垣鳥居の建設、同四十三年 [1910] 荒神社へ合祀、同四十五年 [1912] 耕地内各祝殿を八王子神社社殿へ合祀。大正五年 [1916] 石造五反幟枠建立。昭和二十七 [1952] 年及び平成六年六月 [1994] 、大改修が行われた。
平成七年十月 建之 万五郎耕地
「辰野町の誕生と伝説」p293-295 辰野縁起
国土交通省 中部地方整備局天竜川上流河川事務所 webページ 災害伝承カルテ No.16より
http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/flood/densho/pdf/sanko_007.pdf
信濃の山の重なりの間に信濃神二湖(しなのかむいのにこ)と呼ばれる青く澄んだ二つの湖が、一筋に入り江に結ばれて並んでいた。上の湖を諏訪の湖、下の湖は伊奈の湖ともいった。古くから湖の底には魔の神が住み、時には魔人の怒りが嵐を呼び、洪水をきたした。そこで村人は、魔の季節に入る六月六日になると湖の南にある小高い荒神の岡に集まり、音木を打ち祝詞をあげ、二歳になる雌鹿を湖底に沈めて生贄をする習慣を持つようになった。ある年、この祭りが終わった直後、一天俄にかき曇り七日七晩嵐が続き、いっこうに衰える様子がなかった。東の村に住むおさの娘・梨恵は、自ら生贄に代わって湖に飛びこもうとした時、嵐の中から「待て、しばし、七月七日竜天へ昇る」という声が聞こえてきた。七月七日の雲ひとつなく日が天頂にさしかかった時、たちまちに凄まじい暴風雨となり、大轟音とともに青白い鱗を閃めかせた大竜が荘厳な舞を見せて北の山頂へと消えていった。そして湖の水は荒神の岡の東と西両端を破って一気に南へ流れていった。七月七日竜は天に去り、今まで湖の底だったとこのに野はひらけ、神の怒りに触れることなく嵐に襲われることもなくなった。村には平和と喜びの日が続いた。この時からだれ言うともなくこの土地を、竜の住んだ野「竜野」といい、流れる川を「天竜」というようになった。今も荒神山の北の岡の松とすすきの茂る中に、梨恵が竜の昇天を見た跡が秘められているという。
(類似伝説)明神山の大蛇(清内路村)大蛇の最後が七月七日に起こり、その後人間を災害から守ようになる。
「辰野町の誕生と伝説」p304 八王子神社
国土交通省 中部地方整備局天竜川上流河川事務所 webページ 災害伝承カルテ No.24より
http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/flood/densho/pdf/sanko_007.pdf
八王子神社の伝説
「昔々、八王子神社は素盞鳴尊という神様が便りにしていた八人の御子がおなくなりになられ、神として祀られたという。
大古に平出・下辰野地区はすべて湖水になっていて大蛇が棲み、辰の湖といった。東側の樋口地区は水門の役割を果たしていたが、大水のために破されて湖も次第に涸れ果て平野になった。
その後、この地方には毎年伝染病ではげしい熱病が流行し、人々は大蛇の祟りと恐れ、八人の御子の霊を祀って無病をお祈りしたところ、病気は忽ち治ったという。」
「上伊那文化大辞典」p632 辰野のいわれ
国土交通省 中部地方整備局天竜川上流河川事務所 webページ 災害伝承カルテ No.26より
http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/flood/densho/pdf/sanko_007.pdf
辰野のいわれ 「むかしの荒神山は今より大きく、東と西の山脈までつながっていて、天竜川をせきとめ、そこに湖ができていた。その湖には竜神が住んでいて、天に昇ったり降りたりしていた。ある時の大雨で湖の水が氾濫し、荒神山の東と西を切り崩して水が流れ出し、干上がってしまった。水がなくなったので竜は天に昇ってしま い、今は野になってしまった。ここを竜神がいたということから龍野(辰野)というようになった。」
管理人考
なぜ天竜川というのか。龍伝説がどこかになければいけないと思うが、それがこの「龍の海」が由来なのだろうか。
管理人が勝手にシミュレーションしてみた。下の図は「カシミール」というソフトのiOS版で水面のシミュレーションをしたもの。
荒神山となりの樋口(この地名も水が流れ出るところという意味らしい)から川が流れ始めていたと仮定し、荒神山東一体を水没させると、宮木や辰野や平出などのエリアはこのように水の底となる。諏訪湖から入江で繋がっていたという伝承は少し無理がある気がするが、現在ホタルの生息地で有名な「松尾峡」あたりまでは確かに入江のような形になる。
まずは現状の地形図。
そして赤丸の部分が水面下になるギリギリの高さに水面を設定すると、以下のようになる。
荒神山の西の新町部分は、まだ土があり水がとどまっていたと想像する。上図の「樋口」という文字の部分あたりから、ちょろちょろと古代天竜川が流れていたかもしれない。
ここで面白いのが、仮にこの高さが水面だったとした時、宮木の諏訪神社、辰野駅北の三輪神社(図では辰野駅の上の神社マーク)などの古代から存在したかもしれない神社が、湖に沈むことなく、まさに湖面に面して存在する点である。諏訪市の諏訪大社上社のように、古代は湖面ギリギリに神社があったかもしれない・・・・
上の2枚の画像を合成してみたのが下の地形図。荒神山の西がどのように段丘上の神戸などとつながっていたか想像できないが、ざっくりこんかんじだったのでは?というシミュレーション。辰野町の主な神社を地図上に配置すると、偶然にもすべてが湖の畔となる。新しい神社もあると思うので何とも言えないが、平地部=元湖底部に神社仏閣がないのも特徴である。